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■アフォーダンス 佐々木 『NEW WAVES』の前段階で、アイスランドもの(*)や、建築の写真(*)などがあるじゃないですか。たぶんその2つの方法論は繋がっているんだろうけど、対象としては大きく違う部分がありますよね。つまり建物の場合は基本的に不動じゃないですか。それ自体は動かないし変化していかない。でも波の場合はひたすら変化していく。その2つを同じ写真という行為の中に表象していこうとするときに、そこがどういう風に繋がっていってるのかという興味があったんですけど。作業としては並行しているわけですよね。 ----------------------------- (*)アイスランドもの…『Hyper Ballad : Icelandic Suburban Landscapes』(1997年、スイッチ・パブリッシングなど)。 (*)青木淳やSANAA(妹島和世+西沢立衛)の設計物など、ホンマ氏は数多くの建築写真を手掛けている。12月6日まで、表参道の「ギャラリーホワイトトウキョー」にて、20世紀を代表する建築を撮影した写真展「ARCHITECTUAL LANDSCAPES」を開催中。http://www.g-whiteroom.com/ ----------------------------- ホンマ そうですね。いろんなことが複合しているとは思うんですけど、まず波の写真は当然みんなが撮っているし、建物の写真もいってみれば不動産の折り込み広告のようにあえて撮っているところがあって、そのアプローチの仕方は僕の中ではまったく同じなんですよね。波や建築物をスナップっぽくずらして撮ることもできるんだけど、あえてその手法をどーんと正面から受けて、なおかつ今の定義で写真を出したいということがあって。ちょっと言い方は難しいですけど、正面からがーんといってるんだけど、勝負するのは差異じゃないですか。最低値の差異ですよね。それはやりたいんだと思うんですけど、それプラス、世界の見方というのが、アフォーダンス的なことを読んで自分が世界に対して感じていることはこういうことなんだっていうのことを後で納得がいったんです。 佐々木 やってるときは何かわからないけれど、こういうことをやりたいっていう何かがあったと。 ホンマ そうなんですよ。『アイスランドの郊外』っていうのは、アイスランドは全体で世田谷区くらいしかないんですよ。『東京郊外』(*)だと、このファミレス撮ろう、高速道路撮ろうってすごく計画的に押さえていったんです。でもアイスランドは広がってる郊外の中にどれとしてここを撮った方がいいというのがないんです。決定的なものがなくて、全部同じなんです。同じようにある中を、僕は身体的にどんどん撮れるっていう感覚を初めて味わったんです。写真家じゃないとわかりづらいのかも知れないけど。たとえば、町中を撮るとき、「探して」撮りますよね。 ----------------------------- (*)『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』…光琳社出版。1998年刊。木村伊兵衛写真賞受賞。 ----------------------------- 佐々木 ここが絵になる、みたいなことですよね。 ホンマ そう。アイスランドのときは「どこでもいい」という感覚を初めて味わった。それは僕にとっては不思議な感覚だったんですけど、それはアフォーダンス的なことを後から読んだときに、一戸一戸の物件とかではなくて、あくまでひとつの町のレイアウトとして考えれば、それは当然等価だし、その等価度を東京から離れたところで感じたんだなと思います。東京だとやっぱりわかっちゃいますよね。 佐々木 ホンマタカシという個人の記憶も移動しちゃうから。 ホンマ 写真は当然そういう記憶を撮るものだっていう教えがあるじゃないですか(笑)。それを逆にアイスランドでは自由に感じたんです。全然関係性はないんだけど、町のレイアウトだけでいくらでも撮れたということに気持ちよさを感じて、これは何なんだろうと考えていて、アフォーダンスを読んでこういうことなんじゃないかなって。まあ僕の意訳ですけどね。アフォーダンスをプロパーでやってる人から見たら違うかも知れないけど、僕の中では腑に落ちたし、佐々木先生と話したときも(*)腑に落ちたんですよね。 ---------------------------- (*)佐々木先生と話したときも…「環境と写真」ホンマタカシ×佐々木正人(『包まれるヒトー〈環境〉の存在論』岩波書店)等。佐々木正人は東京大学教授。生態心理学。 ---------------------------- 佐々木 小説でいえば私小説みたいな、私写真といってもいいけど、それを意識してやるのか、結果的にそうなってしまっているのかは別にしても、人間と人間の関係性を結果的に撮ってしまう写真というのが強烈にあるということなんだと思うんですよ。ところが、『NEW WAVES』の場合はファインダーを見てもいないわけですよね。カメラという機械がじっとそのイメージを定着していて、ホンマさんはシャッターを押したりしているかもしれないけど、実は見ているわけじゃない。我々が写真を見るときにどうしても、カメラが撮っているんだけど、写真家の瞳の延長として、写真家が見たイメージとして見るから、そこに人間が写っていれば、撮った人との関係性を読み込もうとする。そういうものへの違和感がカメラを自立させていったというか、そういう方向に自然に向かっていったのかなと思うんですけど。 ホンマ まったくその通りだし、でもそれは特殊なことではなくて、鈴木理策という人がやった展覧会でのインタビューに答えたとき、「カメラに撮ってもらっている」という言い方をしてて。それは同時代的な写真が撮りづらい状況の中でやっていく間では、何人かはやっぱり同じように感じているんだと思うんですよ。当たり前の事というか。それと、僕が考えているのは、とにかく撮り続けたいんですよ。撮り続けるためにはどうするかと考えると、たとえば私小説的なこと、たとえばその人とすごい関係を築いて撮る。それを延々と続けられるのは矛盾で、同じ強度ではありえない。それをナン・ゴールディンや荒木さんはやろうとしているんだけど、ナン・ゴールディンは実際できていないんだけど。それはやっぱり嘘だなって思うんですよね。荒木さんは、ずるいから、それをわかってやってるわけじゃないですか。だから荒木さんは偉いなと思うんですけど。荒木さんに影響を単純に受けて始めた人は矛盾を感じて撮れなくなっちゃうと思うんですよね。それはしたくないので、撮り続けるためのことを考えると、カメラに任せて撮るというのはひとつの方法としてあるんじゃないかな。 佐々木 決定的瞬間という考え方が、ある重要な考え方として、ずっと写真の歴史が続いてるわけじゃないですか。それはつまり、放っておいたらずっと流れていってしまう時間の中に決定的瞬間があって、それをうまくフォーカスして写真という固定したイメージにするということのような感じなんだけど、そこを裏返すと、撮っちゃったものというか、イメージとして固定されたものは、ある意味つねに決定的な瞬間になっちゃうということがあると思うんですよ。たとえば、連続する動きの中で決定的瞬間を撮ったということにされている写真があったとして、見る人はそれは決定的瞬間だというコノテーションと一緒に見るから、そうかなって思うんだけど、それって0.001秒ずれていても決定的瞬間だったかもしれないわけで、撮られたことによって決定的瞬間に逆になってしまうという写真のマジックみたいなものがある。 ホンマ これだって決定的瞬間じゃないっていったって、あいだがないから、厳密にはそうではないんだけど、そのつもりで撮ってますっていうことなんですよ。映画もコマとコマの間に撮られなかったコマがあるわけないですか。でも現実にその時間は流れているし。アフォーダンスを読んでいちばん僕がはっとしたのは、現実の視覚には時間がないというところ。ギブソン(*)が言っているんですけど。写真だったらこれとこれとこれを撮ってというと時間が付いてしまうけど、今は僕は佐々木さんを同時に見ているわけじゃないですか。同時に存在しているわけだし。そのことはすごくはっとしましたね。それをどうにか写真に生かせないかなということを考えて。アイスランドで僕はそれをやったんじゃないかなと思うんです。もちろん順番はあるけど、それを入れ替えてもいいわけだし。そのことは、決定的瞬間だけを捕らえていた写真だけを考えていたから、はっとしましたね。波に関しては、カメラに任せて撮っているという意味では、ひとつの大きい波の場所、光や環境に包まれているという感じはすごくしましたね。それに身を任せて撮るのが気持ちいい。あとはファインダーを覗かないで、ただただ撮っている。 ---------------------------- (*)ジェームズ・J・ギブソン(1904〜1979)。アメリカの生態心理学者。アフォーダンスの提唱者。『生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る』(サイエンス社)など。 ---------------------------- 佐々木 ずっと変化していて、どれだけ微分しても変化の過程でしかないというときに、それをひとつの固定した写真という形に捕らえていくことのある種の、いい意味での倒錯みたいなものがあるんだと思うんですけど。これは写真なわけじゃないですか。でも映画やビデオにしちゃったら、本当にただ変化しているだけになりますよね。それも本当は見えていることの連続でしかないんだけど、少なくとも写真よりは連続性になるには違いない。でも波というものの変容し続ける様をイメージにしようとしたときに、動く映像ではなくて、写真に敢て落とし込むことへの困難への挑戦があると思うんですけど。 ホンマ 映像で撮ったら当たり前になりすぎちゃうんですよね。それをあえて写真でやる方がおもしろいんじゃないかなと思う。 佐々木 しかも連続写真みたいにはなってないわけですからね。これはカメラが撮っているだけなんだと聞くと、すごく音楽との関連性みたいなのを感じるんですけど、音楽を作ったり演奏したりするっていうのは、最初は人間が歌でやっていて次は楽器になるわけですけど、楽器はやはり身体の延長なんですよ。ギターを弾いたり笛を吹いたりするのも手や口でやっているから、そういう形で身体性がどこまでも延長されていくみたいになるんだけど、電子楽器が出てきたときに身体から切り離されるわけですよ。その人がどうであろうと、機械が働いていると音が出ちゃうときに、その音っていうものを、でもそれは自分が作った音なんだっていって再度身体に取り込むことがテクノ以後の音楽の作り方であって、要は本当は機械がやっていることなわけです。作曲でさえある意味ではコンピュータという機械がやっていることであっても、それはそれを操っている人の表現でもあるということになっていく。これはそれ以前とは全然違う。このこととカメラの自立性というのはシンクロしていると思うんですけど。 ホンマ 写真はその電子音楽が出てきたというところから始めるべきだったんですよ。それなのにそれ以前のギターくらいのところで止まっているというか。ギターのようにカメラは身体感覚の延長で操作して写真を表現できるという幻想が長い間続いていたと思う。カメラが勝手に撮っちゃう、電子音楽が勝手に作っちゃうというところを意識的にやっている写真家が少なくて。だいたいそれは現代美術家と呼ばれる人が、写真を道具として使っている場合しかない。写真家はやっぱりどうしても身体能力でうまく撮れる人みたいに長い間きちゃったんじゃないかと思う。特に日本はそうだと思うんですよ。 佐々木 カメラを持った者の身体能力とか人間性とか、そういうものと撮る写真とが分かちがたく結びついているみたいな。それも私映画ってことだと思うんですけど。そういうことと自分がやりたいことが根本的に違うんだっていうのは相当初期から、写真をやろうと思った出発点から、ホンマさんの中にはあったということですか。 #
by ex-po
| 2011-12-28 12:25
■きわめてよいふうけいー中平卓馬 ホンマ 言葉には全然できていなかったけど、やっぱり違和感は絶えずあって。僕は写真をやろうと思ったのが遅くて大学に入ってからだったから。その頃の日芸の写真部は、高校の写真部長クラスが集まっていて、みんな詳しかったんですよ。でもそれだけじゃあ息苦しいなあというのはずっと感じていた。そう考えると音楽は、なんでそんなに早く表現としてポスト・モダン化したんですかね。 佐々木 まあ音楽は写真よりも相対的にポピュラーな文化だから、やっている人の数が多いから、煮詰まるのも早かったんじゃないかなと。やっぱり相対的には表現としての写真というとハイアートじゃないですか。そういう部分でよくも悪くも保護されるというか、ある種の可能性みたいなものが進化の途中でデッドエンドを迎えるようなことに至らない状態のままで進むことができたところがあったのかなという気がしますけどね。物理的な数の問題で。 ホンマ それとやっぱり写真は商業と結びついているから、作品としてじゃない写真があふれているから、うまく撮れるとか、あの人はうまいというのも生き残ったのかと思うんですけどね。写真という芸術だけだったら、早く表現のチェンジがあったと思うんだけど、やっぱりうまい人が必要な仕事っていっぱいありますよね。そういう意味では、映画はいまだになかなか進化しませんよね。 佐々木 そうですよね。映画は物語が撮れちゃうから。そっちの方向でなんとなく展開できちゃう気がするけど。 ホンマ 永遠に物語ですよね。 佐々木 もしかしたら最初に写真に向かい合ったときから、大方の写真を使って表現をしている人とはまったく別のことをやろうとしていたのかもしれないというのがあったとして、それでもそれを自覚的に意識的にやれるようになったのは、おそらくここ10年くらいのことなんじゃないかと思うんですが、そうなっていくきっかけというか、大きな要因として、中平卓馬の映画(*)をホンマさんが作ったじゃないですか。 ---------------------------- (*)中平卓馬の映画…『きわめてよいふうけい』。撮影、監督ホンマタカシ。製作リトルモア。2004年公開。 ---------------------------- ホンマ 中平さんはやっぱり僕のすごく奥のほうにあるんですよね。中平さんが今やっているカラー写真はすごく僕にとっては、なんて言うんだろうなあ、好きとかじゃなくて、表現の本当に極地をいっていると思うんですよね。それに中平さんが情緒的な夜のワイドレンズのボケから、あそこに転換したということが、すごく重要だと思うし、奇跡的なことだと思うんですよね。だから僕は中平さんの昔の写真は全然好きじゃないんです。 佐々木 ああ、そうなんだ。じゃあ本当に『なぜ、植物図鑑か』(*)っていうか、本当に「植物図鑑」になって以後が重要なんだと。 ---------------------------- (*)『なぜ、植物図鑑か』…中平卓馬著。初版は晶文社より1973年に刊行。2007年にちくま学芸文庫より再刊された。中平の評論を纏めた書籍としては、他に『見続ける涯に火が…批評集成1965—1977』(オシリス)がある。 ---------------------------- ホンマ そうですね。だから長い間、森山さんの写真もよく分からなかった。 佐々木 森山大道もそうですが、いわゆるブレ・ボケ派みたいな写真家のエコールから中平は出発した。にもかかわらず、中平さんは今から見るとちょっと考えられないような変化を、他の人ではあり得ないような形でしちゃった人ですよね。事故に遭って記憶がなくなっちゃったわけじゃないですか。理論家、批評家としての中平卓馬が「植物図鑑」と言ったとしても、実際に「植物図鑑」的な写真を撮り始めたのは記憶を失って以降ですよね。そうすると、その身体的な事故はどうしても決定的に重要な意味を持ちますよね。 ホンマ それは本当に事故によるものとしかいいようがなくて、人間はそんなに簡単には変われませんよ。僕や佐々木さんだって、こういうところをなおしたいとか、こういう風な人になりたいとかあっても絶対に無理だから。でも中平さんは、本当に奇跡的なことだと思いますね。それぐらいじゃないと人間変われないですよね。しかも中平さんは自分で分かってたわけじゃないですか。情緒的なことを排して植物図鑑のように撮りたい、撮るべきだって言ったけど、実際はそれが長い間できなかった。事故で記憶がなくなって初めてそれが出来るようになった。そんなことがなければ簡単には変われないし、そんな風にして変わったっていうのは、多分世界中の表現者を見てもあんまりいないと思いますね。 佐々木 意図して出来ることじゃないですからね。 ホンマ 吉本隆明が転向したとか、とはちょっと違うじゃないですか。中平さんの場合、人間が変わっちゃたようなものだから。それが森山さんたちにとってもショックであり、うらやましいと思ったんじゃないかな。 佐々木 中平さんの映画を撮ろうと思ったのは、ホンマさんにとって驚きみたいなものがあったってことですよね。 ホンマ そうですね。それから、なんでなんだろう?っていうことですね。 佐々木 あの映画を作る過程で、撮影をするというよりも、半ば生活をともにする形で作ってるじゃないですか。そのときにご本人に触れて何か発見はあったんですか。 ホンマ うーん、正直言って、人間的に中平さんを好きになったというのは別にして、あまりそれはないというか、あのアプローチで映画をやったのはちょっと間違いだったかなと思うんですよね。今の段階では。今だったらもうちょっと違うやり方をできたんじゃないかっていうのと、それと、初めて言うんだけど、中平さんを使ってある実験をしたんですよ。実験というか。中平さんはマッチでタバコを吸うんですよ。マッチを外に向けて擦るか自分に向けて擦るか、大きく分けて2通りありますよね。マッチする人をまず実験して、大人だったら、外に向けて擦る人は10回ともそうするんですよ。初めてマッチを擦る子どもは、どうつけていいか分からないから、いろいろやるんです。で、2回目やったときはうまく付いた方向にしか擦らない。大人なら絶対に固定化しちゃうんです。それで中平さんはどうやるかというと、2回に1回、外に向けたり内に向けたりで着火に成功するの。まったくランダム。それはどういうことかというと、これは仮説ですけど、1回1回の記憶がないんです。1回1回があの人にとっては生まれて初めて。 佐々木 映画に出てくる日記もそれですよね。 ホンマ その後やろうと思ってたのは、中平さんは3日4日でフィルム1本撮るのかな。ベタを見ると、何度も何度も同じものを撮ってるんですよ。被写体が限られてるんです。だからその仮説からいくと、毎回初めてその被写体を見て、初めて撮ってると思うんですよ。それがすごく驚きで。そういうシナリオで映画を作ればよかったなって今は思ってるんです。 佐々木 それはすごい話で、さっき言ったように、カメラで写真を撮るときには、カメラのレンズの向こうにそれを覗いている人間の瞳が必ずある、その瞳の向こうには脳や心があるということになってるわけですけど、そこをどう切断するかということになったときに、中平さんという人は、結果的にそういう身体的な事故があってというのはあるんだけど、要はカメラそのものになっちゃってるんですよね。カメラには心理がないから、どんな映像でも何回でも撮るじゃないですか。それと同じことに結果的になっている。それが人間によって成されているということへの驚きってことですよね。 ホンマ あとは現実的なことで中平さんの今のカラー写真がすごく奇跡的だっていうのは、マニュアルのカメラを使っているんですけど、125分の1の8秒に位置に固定してあるんですよ。変えないのね。その露出のときに写る写真だけが写されている。撮りたい写真によって明るさを変えたりしないのね。100のフィルムを入れてるんだけど、天気のいい日にしか原理的には写らない。だからああいう写真になるわけ。調整してああしているわけじゃないんですよ。 佐々木 それ以外は写ってない。 ホンマ それ以外は真っ黒か真っ白なんです。 佐々木 ご本人に写真を撮っているという意識があるのかも相当怪しい。 ホンマ そうですね。撮影しに行くとは言っているけど、あの写真にそれだけの強度を感じる理由のひとつなんでしょうね。 佐々木 今までの話は自分がずっと考えてきたことにシンクロしていると思ったんですけど、僕がホンマさんがやっていることに辿り着いたのには、ひとつには即興演奏について考えていることがあって、インプロヴィゼーションをしているときに、その人の中で何が起きているんだろうと考えたときに、ただ単にその場で作曲するということではなくて、その人自身が1秒先に何を弾くか分かってないような形で演奏していくっていう、音がどんどんその前のオーダーを裏切っていくのが理想的なインプロだとすると、そういうことを人間はどうしても出来ないんですよ。絶対に癖もでるし、ある時間の経過の中で音が鳴っていると、その音の中での変化のあり方が必ず決まってきて、それを裏切ることも含めて定められた選択可能性でしかないから、つまり時間というものがあって人間に記憶力がある以上、本当の意味でのインプロは出来ないんですよ。でも、だとしたら記憶喪失になればいいんだと考えたことがあるんですよ。つまり自分が鳴らしたばかりの音をその瞬間ごとに忘れていっちゃえば、絶対に次に出す音は新しい。 ホンマ それは中平さんですね。 佐々木 でもそれって出来ないわけじゃないですか。中平さんも、それをそうしようと思っているのではなくて、彼の場合は、それが理想であるということを事故に遭う前に予告していたってことがすごいんだけど、予告して実践するために事故に遭ったわけじゃないから。だからこれは結果論じゃないですか。中平卓馬がすごいとしても、ホンマタカシという人が同じ方法論でやるわけにはいかないですよね。だとしたら事故に遭わずにどうすればああいうことが出来るのかっていう話になるんだと思うんです。それこそが、もしかしたらずっと試みていることなのかなって。 ホンマ 絶対無理だけど、そうするにはカメラに任すしかないですよね。 佐々木 撮ってから現像されますよね、そのときには写真を選びますよね。選ぶときの判断の基準というのはどういう形で設定しているんですか。 ホンマ 理想はやっぱり選ばないことですよね。撮ったものを全部というのはいずれやりたいですね。選ぶってことは、そこは矛盾ですよね。作為が入ってしまう。ただおもしろいのは、中平さんの話に戻すと中平さんも選ぶんだよね(笑)。どうしてこれを選んだのか聞きたいんだけど、「これとこれだね〜」っていつも2枚組にするんですよ。 佐々木 ああそれで最近の作品は2枚なんだ。 ホンマ 2枚組というのがどっから来たのか、雑誌のレイアウトから来ているのかなあ。でも選びますね。自分で。 佐々木 現在の中平卓馬ならではの美学的な価値判断が作動しているってことですよね。でもそれがどういう基準なのかは端から見ててもよく分からない。 ホンマ 分からないんですね。 佐々木 波を撮ったら全部を載せたいということに、たとえば建物をちょっと変わった構図で撮るとか、真正面から撮るとかいうアプローチをかなり意識的にやってらっしゃるわけじゃないですか。ベッヒャー夫妻(*)の一連の建物写真を思い出したりするんだけど、でもベッヒャーの場合は本当に図鑑なんですね。ベッヒャーにも私性をどう切断するかという問いはあったと思うんです。でもベッヒャー的な試みとホンマさんがやっていることにはやっぱり差異があると思うんです。そこはどういう風になっているのか知りたかったんですけど。 ---------------------------- (*)ベッヒャー夫妻…ベルント・ベッヒャー&ヒラ・ベッヒャー。水塔、冷却塔、溶鉱炉など、ドイツ戦前の建築物を主観を排して撮影し、機能や形状などに即して機械的に並列するタイポロジー(類型学)というスタイルが多くの影響を与えた。 ---------------------------- ホンマ ベッヒャーがやっていることとちょっと違って、ベッヒャーは本当に私性をなくした図鑑作りじゃないですか。それって多分ドイツ人でオーガスト・サンダーという20世紀の人類図鑑を作ろうとした人がいるくらい、意図的にあるんだと思うんですよね。多分それとは違って、環境というと勘違いされるけど、人間にとっての環境レイアウトに興味があってアイスランドなり建築を撮っているんですね。 佐々木 エコロジー・マイナス・ロハスみたいなことですよね(笑)。 ホンマ ギブソンははっきり言っていて、自然物も人工物も一緒だって。 佐々木 なるほどね。 ホンマ たとえばこの机と壁の間をすり抜けることは人間の環境にとって、この机や壁が草だろうが環境としての情報は同じじゃないですか。通るときの環境としては。多分そういうことがやりたいんだと思うんですよね。『NEW WAVES』を出したときも、やっぱり波とか海とか好きなんですかと聞かれるんだけど、まったく興味ないと答えているんだけど(笑)。いろんな波のレイアウトがあるというか、ひとつとして同じ波はこないということに対してしか僕は興味がないんですよね。 佐々木 人も写ってないし。人間性の切断というか人間性を完全に排除して、ただの機械というわけにはいかないということですよね。 ホンマ いかないし、そこに興味は別にないかなあ。 木村 図鑑であれば、正面からもっとも客観的に対象を撮るわけですよね。 ホンマ これはそう撮ってないですから。 木村 そうですよね。そうするとやっぱり対象との距離感とか残っていくってことですよね。 ホンマ それと多分、人間の通り道を撮っているのかも知れない。この人間が移動するための配置を撮っているのかも。そこが決定的に違う。 佐々木 実は建物や構造物のプロポーションにもまったく興味がないということなんですよね。 ホンマ ただ、郊外独特のニュータウンやニュービルディングの独特の立ち方や配置であるとか、通り道に興味があって、そこを撮っているんだと思うんですよ。撮っているとき にそれを考えたわけじゃなくて、アフォーダンスを読んでそう思ったんですけど。 #
by ex-po
| 2011-12-28 12:24
■写真の原理に向かう写真家 木村 外側にルールを設定している気がするんですね。カメラに撮ってもらっている話とかお伺いしていると。いわばカメラはブラックボックスで、それ自体は機械で何ら意志はないというところに、可能な限り人間の行為をゆだねていくというルールに従わせていくこと自体が、ルールを外在化することですよね。私小説や私写真と言うものでは出てこない、内面の唯一性を担保してしまう表現では出てこない、ルールを外側に置くことからはじまる人間の行動とか、「生きる」ということとかがあると僕は思っています。このことは、写真がカメラの構図そのものを語るようなものとして出てきてたりすることにつながるのかなと思うのですが。 ホンマ 写真の原理自体に興味がある人が増えているのがあると思うんですね。野口里佳さんのピンホールカメラとか、鈴木理策さんが雪を撮っていて真っ白なんだけど、それが印画紙の白なのか雪なのか分からないとか。写真そのものみたいなことにあえて戻ろうという人たちは僕を含めて、写真をやる上で出てきているのかと思いますけどね。 佐々木 どうして写真なのかと。 ホンマ そうですね。その中でカメラを撮る人から独立させてというのは、そうさせるための手法のひとつだと思いますね。 佐々木 写真の原理に向かう写真家が散見されるようになってきているというのは、やっぱり歴史的な必然がどこかであるのかもしれないとも思っちゃうんですけど。 ホンマ それは時代的なものはあると思います。東京で同じように写真の仕事をやってて、いろんな状況を見てて、同世代で同じようなことを考えていれば、似たようなことにたどり着くというのは。音楽もそうで、絶対にひとつのグループとして出ますよね。 佐々木 お互いに知らなくても似たようなものを見ているからね。最初の方の話で、写真は商業的な部分があるから、技術の問題があったとして、ホンマさんは既に長いキャリアがあって、技術的な研鑽というか、うまい写真をある条件を与えられたときに、相対的にうまいと言われるような写真を撮ること自体は出来ちゃうと思うんですよ。うまい下手というのがどこで線引きされるのかというのも、素人には分かりにくい部分があったりするんだけど、ある種の技術的な巧さみたいなものと、今日話してくれてるようなアプローチがどこかで関係しているのか、それは別の問題なのか興味があって。たとえば、中平さんみたいなことを、もしかしたら写真の使い方もよく分からない子どもとかがやっちゃうかもしれないですよね。でもそれはその人が撮っているとはおそらく言えない。それは技術じゃない。でも技術があった上で、そういうことを目指すことの難しさと面白さがあるんだと思うんですよ。 ホンマ でも中平さんの写真は素人には絶対に撮れませんよ。 佐々木 なるほど。そこにはやはり技術的な何かがあると。 ホンマ それを技術と言っていいのかどうかは甚だ疑問なんだけれど、単純にいえば、中平さんは150キロの直球をど真ん中に投げ続けているんですよね。素人は150キロの直球は投げられないですからね。強度だと思うんですね。中平さんに関しては。僕らはどうかっていうと・・・うーん。人の写真を見ておもしろいなって思うのはだいたい現代美術の人の写真ですね。 木村 できればもう少し、その150キロの直球というものが、例えば、子どもが初めてデジカメを手にしてパッパッと撮る、などとどう違うのか聞かせてください。言葉にしにくいことだと思うんですけど。 ホンマ 物理的に・・・125分の1の8秒でしか撮らないということも、それを続けられて、まったく似たような被写体を撮り続けるということが、他の人に物理的にできるかってことですよね。実際中平さんっぽい写真ってみたことないですからね。 木村 絵だったら画力というかテクニックのこととして輪郭づけることのできるポイントだと思うんですけど、シャッターを押す際の腕力って・・・。あるいはそうではなくて続けるっていうところにこそとてつもなく・・・。 ホンマ どういうことかというと、たとえば卵焼きが大好きだとしますよね。普通の人はそれを3食1週間食えます? 中平さんは結局それを食っているということですよ。それがうまいか下手かということではないんですよね。食べようと思えば食べられますよね。それを1週間食べ続けられるか?どうか?ということなんですよ、中平さんは。毎回毎回忘れているからね、卵焼きを食べたということを。そこはやっぱり珍しいことなんですよ。 佐々木 写真って心理が写っちゃうというときに、写そうとしなくても写っちゃう心理を極力写らないようにしていくベクトルがあったとして、それが極限までいったとしても、でもやっぱり人間は残るみたいなことだと思うんですよ。中平という人を心理的に理解しようとしても不可能ですよね。本人の中にさえ自覚がないから。積み上げられていく認識もないし。逆説的に言うと、それが中平卓馬という人間だということにやっぱりなっていて、全自動機械が写真を撮り続けているわけではない。人間というモノが残って、心理とか感情がどれだけ縮減していっても、人間は残るということで、それはホンマさんにしても同じことじゃないかなと思うんです。 ホンマ そうですね。それはそうだと思いますね。そのことって勘違いされやすくて、分かりやすい作家論みたいなのに言われやすいのとは中平さんは違うかな。普通に作家論を書いている人は中平さんのことは書けないんですよね。書いたらすぐに終わっちゃうから(笑)。答えが出てるから。 佐々木 ある意味、身も蓋もない。 ホンマ そこが僕にとってすごく気持ちがいいんですよね。 佐々木 ホンマさんにとって中平さんという人がまったく別格の人として、写真家としてだけじゃないかもしれないけど、まさに人間としてというか、そういう人がいることという事実への驚嘆がある。 ホンマ そうですね。中平さんのことに対しては僕もそんなに簡単に言い切れるものではないんですけど。やっぱり大きな何かではあるんですよね。 佐々木 決して中平卓馬ではありえないホンマタカシという人間が、中平卓馬が結果的にやってしまっていることへのアンサーみたいな意味で自分の試みを続けていこうとするときに、今の方法論でまだまだ出来ることがあるんだと思うんですけど。『NEW WAVES』以降みたいなことでもいいのだけれと、インタビューでも「永遠に波を撮り続けていてもいい、波の写真集を出し続けていてもいい」という風におっしゃっていたけれど、それもまた可能なことだとは思うけど、それ以外というか、このベクトルの中で次に試みられることがあるんだとすると、それはどういうことなのかなと。 ホンマ 僕も日々考えていることなんですけど、写真の原理的なところに戻ってやっていくのと、とにかく写真を撮り続けるということ。現実的には。一回もう『NEW WAVES』みたいに世界を見るようになっちゃったから、その感覚ではずっと撮っていくと思いますね。 佐々木 その前の段階には戻ろうと思ってももう戻れない。 ホンマ そういうことですね。 佐々木 それはそれでしんどいっちゃしんどいですよね。 ホンマ だから日常をただスナップしたりするだけというのはありえないというか、作品としてはないかなあというのかな。ただまあ、しんどいとは思ってなくて、やりたいことがどちらかと言えばあり過ぎて(笑)。 佐々木 10年前より今の方が全然自由だと。 ホンマ 全然自由ですね。自由だしやりたいこともいっぱいあるから。それまで生きていられるかなくらい(笑)。 木村 比較的前半の方で、撮り続けたいんだとおっしゃってて、それにすごく共感するというか、僕はどちらかというとダンスとか演劇とかの批評側にいますけど、やっぱり「踊り続けたい」という人を「見続けたい」と思っているんですね。それはやっぱりただ踊っているんじゃなくて、さっきの記憶を消すみたいな方向にすごく近くて、自分が作ってしまったものを常に壊し続けながら、先ほどお話しした言葉で言うと、外側に何かを設定するといったような自分を空っぽにしていくような仕方で、でなければ達成できないようなことが僕にとって「続ける」ってことなんですね。例えば、僕の専門分野のひとつに暗黒舞踏があります。その創始者土方巽という人は「踊りとは命がけで突っ立った死体である」と言って、暗黒舞踏というのを「死体」が踊る踊りであると考えるんですね。それはもちろんレトリックで、死体の状態を踊らせようという考え方なんです。で、僕はその考え方に非常に惹かれるところがあるんですけど。生きて働いているときに作ってしまうルールや慣習を内側に設定したものを常に裏切っていくやり方で、ダンサーとして人体を死体化していくと。その常に矛盾を孕んでいる状態が踊っているんだとしたら、それを続けるのは非常に大変だし、けれども、それこそ「見続けたい」ものなんです。 ホンマ 絶えず満足しないというか、常にもっとこういう風にしようと思っているってことですよね。毎回完全に自分を殺してやっていくって方が言い方としてはかっこいいけど、現実的には多分・・・絶えず実験していくっていうか、まあ出したものが絶えず未完成ってことなのかな(笑)。これが完璧だって風に言えないもん。 佐々木 これが完璧だったらおかしいですよね(笑)。決定的瞬間だらけってことに。 ホンマ これにのりしろがあるっていうか。 佐々木 今日の話は何回もそういうことになったけど、すごく両義的なところがあって、たとえば『NEW WAVES』はたくさん撮った中で偶々これなんですって言い方をホンマさんは出来るし、このヴァージョン違いを10冊でも100冊でも作れるよってことにもなると思うんだけど、にも関わらず、これを一冊の写真集という作品として見てしまうと、やっぱりすごく美しいわけですよ。そのパラドックスが面白いと思うんですね。でもそこに安住することも出来ない。写真を原理的に考えれば考えるほど、写真を撮ることが容易ではなくなっていくのだけど、でも撮るという試み自体、ホンマさんにとってすごく意味があるんだと思う。だからこそ外側から見ると、なぜ写真なのか、という問いが出てくる。 ホンマ 写真は1回1回止めて、さっきの話で言うと1回1回殺しているわけですよね。けど、なんだろうな、映画とか小説みたいに起承転結があるものじゃないから、そういう意味では実際の感覚にもう少し近いというか、それこそピークがなくずっと撮れる。ずーっと表現できる。(ヴォルフガング・)ティルマンスなんかは、毎年20点いい写真が撮れればいいという言い方をしていて、だから「2007—01」という作品なんですよ。ずっと続けていけるから、写真はすごくいいと思いますね。現実の知覚には時間がないというのを逆説的に写真がいちばん向いているんじゃないかなと思いますね。映画や小説だと起承転結を決めないといけないから。かなり今こうやって話していたり生きていたりするのとは離れますよね。という気はする。 佐々木 それはすごく面白い。演劇でも小説でも映画でも、プロセスがあるから、起承転結があるということは、因果が生じてしまうというか、こうでこうでこうしてこうなったねっていうのが、本当はそうなってなくても、そう読み取ることが出来てしまうわけなんだけど、しかし現実にはそういうものがあまりなくて。 ホンマ ないんですよね。 佐々木 ないのに、なぜか物語があるという。 ホンマ 普通はダラダラ続くわけじゃないですか。そのことができるのはやはり写真と・・・。 佐々木 アンディ・ウォーホルがエンパイア・ステート・ビルを7時間延々と撮るというのをやっているんだけど、それでも7時間という有限の時間であれば、そこには最初と最後が生じてしまうということでは、実は普通の映画とあまり変わらない部分があったりして。だからたぶんその方法では絶対に現実を相手には出来ないんですよね。だから逆に瞬間でいくということなのかな。 ホンマ それを写真は個人が死ぬまでできるから、後は波にしても毎年撮ってもいいわけだから。そういい意味では逆説的ですけど、現実にフィットしているのかなあと思いますね。ちょこちょこ撮っているから、ちゃんとした1本の劇映画を撮らないんですかってたまに言われたりするんだけど、「え、何で撮んなきゃいけないの」って言ってる(笑)。 佐々木 どうやったら撮る理由が出てくるんだよって(笑)。 ホンマ そうそう。中平さんに関してはもうちょっと映像を撮ろうとは思ってるんですけどね。 佐々木 もう少し継続して。 ホンマ そうですね。今度は本当に延々と中平さんがタバコを吸っているところの繰り返しとかになっちゃうんですかね。 佐々木 今日は想像通りにすごく面白い話が聞けました。 写真から音楽へ ホンマ 音楽はそういうことをやっている人はいるんですかね。 佐々木 うーん。そういうことを考えざるを得なくなった人は、多いわけじゃないけどいるとは思いますけど。音楽の場合も、どうしても人間性や感情的なことが関係してくるし、聴く方も何かを勝手に受け取るから、それこそホンマさんが『NEW WAVES』でやっていることを音でやろうとすると、たとえば波の音をフィールドレコーディングして100枚組のCDにしたとするじゃないですか。それは似ていることかもしれないけど、きっと音の方がもっと情緒的な受け取り方をしてしまうかもしれない。それをどう排除するかというのは音は結構難しいような気がする。 ホンマ ジョン・ケージが考えてたんじゃないですか。 佐々木 その出発点はケージが考えたことかなとは思うんですけど。耳はすごく攻撃的に受動的なところがあるから。勝手に聞いちゃうから、耳って。よく言うんだけど、目と耳の違いは、耳には「瞼」がないことだと思うんですよ。目はとりあえずつぶればいいじゃないですか。でも耳はほっといても何か聞こえちゃう。それは何かを聴くことは別のことなんだけど、本当は別のことじゃなくて、本当は聞こえているというのが本質なんです。人間の耳がスピーカーだとしたら、ずっと何かの音が聞こえているわけです。そういう意味では耳はすごく無防備だし、そこでたとえば、よくHearとListenの違いみたいなことを言うんだけど、HearをListenに転換した時に、そこで変な対象化みたいなのが生まれてしまって、聴くことの神秘主義化が生まれてしまったりもする。そこは難しいところですね。 ホンマ 偶然をテーマにしている人もいるんですかね。 佐々木 ケージにもチャンス・オペレーションというのがあるけど、偶然も結構難しいですよね。 ホンマ 難しいでしょうね(笑)。 佐々木 チャンス・オペレーション的にランダムに音を拾うようなシステムを開発して、人間がいないところで音を記録してCDにしたとしても、それを聴く人はそれそのものを聴いてるんじゃなくて、そのシステムを聴いている、そういうことをやりましたよっていう認識を確認するために聴いている部分がある。 ホンマ スケッチみたいな感じはどうですか。 佐々木 テープレコーダーをいろいろなところに持っていって録ったりっていうことをやる人は結構いたりしますけど。フィールド・レコーディングは可能性があることだと思うけど、角田俊也さんという方がすごく性能の良いコンタクトマイクとかで、道のアスファルトとか構造物とかに仕掛けると、人間の耳には聞き取れないけど鳴っている振動が録音出来るんですよ。それを記録して、時間と場所を明示した形で作品にするということをやっている。実際に聴くとゴーとかドーンとか鳴ってるわけ。 ホンマ そうだよね(笑)。 佐々木 彼はそういう意味ではHearとListenを考え抜いてやっているなっていう気はしますね。 ホンマ 普通に気ままにギターを弾いたらポップミュージックになっちゃうんですかね。 佐々木 なっちゃうでしょうね。うまい下手は別にして。音楽の場合は本当に人間がやることなので、難しいですね。僕も色々とそういうことを考えてみたりしますけど。 ホンマ 表現の困難さという意味では、今小説を書くことってどうなんですかね。 佐々木 小説を書きたい人は多いみたいですね。 ホンマ 多いですよね(笑)。 佐々木 ホンマさんが気持ち悪いと思っている、関係性を撮るっていうことは、結局は自分語りっていうことですよね。自己表現ってことが、そういう言葉を使っているかどうかは別としても、皆したいんですよ。自己表現ってことは、実は自分の存在を承認されたいっていう、逆に言うと承認されていないっていう不安感があるから、ということから表現を始めようとしている人があまりにも多くて。何か表現をしている人っていうのは、そういう「私性」の延長だけに終始してしまうというのが圧倒的に多いのが現状じゃないですかね。 ホンマ そう考えるとブログの延長ですね。 佐々木 ブログが一般的になって多少解消されたんじゃないかと。 ホンマ (笑)。だといいけど。 佐々木 小説の新人賞の応募は、本が売れなくなるのとはパラレルに増えていっているというし、たとえば『美術手帖』とかも「アーティストになるには」みたいな特集の時だけ突出して売れるらしいんです。写真雑誌とかもそうですよね。そういう人が多い中で、そういうことだけはしまいっていう人が相当困難になっているということなんじゃないか。世間で受ける人ってキャラ立ちみたいな人ばかりだし。でもホンマさんはこういうベクトルに向かってから逆に元気になっているように見える。 ホンマ 僕自身は困難だと思ってないので……えーやめて下さいよ(笑) 佐々木 端から見るとすごい困難なところに入っていっているようにも見えるんだけど。楽しそうですよね。今すごく波に乗っている。 ホンマ うーん、まだまだですけどね。これから15年くらいに乗ろうと思ってます↑ (協力:森陽子、パルコ出版) ホンマタカシ……1962年東京生まれ。1999年『東京郊外』で第24回木村伊兵衛写真賞受賞、新世代を代表する作家として国内外で活躍。『NEW WAVES』『東京の子供』『Tokyo and my Daughter』『きわめてよいふうけい』ほか著作多数。 #
by ex-po
| 2011-12-28 12:24
*「新潮」の連載「批評時空間」次号、第十三回は「観察(者)について(その1)」。フレデリック・ワイズマンとワン・ビンを並行/交互に論じてます。 *「群像」に『恋する原発』についての高橋源一郎氏にロングインタビューが掲載されてます。 *「朝日新聞」の「売れてる本」年明け一発目は越谷オサム『陽だまりの彼女』です。 *「東京新聞」の「BOOKナビ」は三年目も担当することになりました。 *「週刊金曜日」の書評委員を2012年1月から半年間担当します。 *「CINRA.NET」が新たに開始するレビュー欄を2ヶ月担当します。最初に取り上げたのは映画『ヒミズ』です。 *「美術手帖」にも『ヒミズ』の短いレビューを書きました。 *「DU」に湯浅学『音楽が降りてくる』の書評を書きました。 *「音盤時代」スピンアウトの単行本『音楽の本の本』で「読むこと、書くこと」にかんするロング・インタビューを受けました。 *「生活考察」3号に連載エッセイ「普段の生活」第三回「旅する普段の生活」が掲載。 12月29日(木)トークwith ホンマタカシ @ハイマットカフェ 1月12日(木)冨士山アネット『[八](エイト)』アフタートーク@アトリエフォンテーヌ 1月24日(火)聴覚体験サミットwith角田俊也、沼倉康介(nadukeenumono)@forestlimit 1月27日(金)バストリオ『Rock and Roll』アフタートーク@新宿眼鏡画廊 2月9日(木)ARICA『恋は闇/LOVE IS BLIND』アフタートーク@イワト劇場 #
by ex-po
| 2011-12-27 12:36
『未知との遭遇』は、「テン年代」の「生き方」にかんする本です。本文中にも書いていますが、「テン」とは「転変」の「転」であり、「天然」の「天」でもあります。『ニッポンの思想』(講談社現代新書)で記述した日本の現代思想の系譜は、「ゼロ年代」に或るひとつの帰結を迎えました。そこから先に進むためには、なんらかまったくこれまでとは異なるやり方が必要です。「哲学」とは結局のところ「世界」への対峙の問題であり、「思想」とは詰まるところ「人生」への対処の問題であるのだとしたら、「哲学」や「思想」と呼ばれ得るものは、ほんとうは予備知識もコンテクストも抜きに理解されるべきである筈です。という考えでもって自分なりに書いてみた結果、こういう本になりました。このフェアでは、本の中に出てくる/出てこないけれど執筆中にアタマの中にはあった、さまざまな本を集めてみました。ジャンルもスタイルも滅茶苦茶ですが、そういう本なのです。 「おたく/オタク論の系譜」 東浩紀 『郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1』河出文庫、二〇一一年 東浩紀編 『美少女ゲームの臨界点 波状言論 臨時増刊号』波状言論、二〇〇四年 岡田斗司夫 『オタク学入門』新潮文庫、二〇〇八年 ―――― 『オタクはすでに死んでいる』新潮新書、二〇〇八年 中野独人 『電車男』新潮社、二〇〇四年 中原昌也+高橋ヨシキ+海猫沢めろん+更科修一郎『嫌オタク流』太田出版、二〇〇六年 花沢健吾 『ルサンチマン』全四巻、小学館ビッグコミックス、二〇〇四~〇五年 本田透 『電波男』三才ブックス、二〇〇五年 「世界 vs セカイ」 東浩紀 『ゲーム的リアリズムの誕生——動物化するポストモダン2』講談社現代新書、二〇〇七年 東浩紀 『クォンタム・ファミリーズ』新潮社、二〇〇九年 東浩紀+桜坂洋『キャラクターズ』新潮社、二〇〇八年 いましろたかし『デメキング』ベストセラーズ、一九九九年 ―――― 『デメキング 完結版』太田出版、二〇〇七年 歌野晶午 『世界の終わり、あるいは始まり』角川書店、二〇〇二年 岡田斗司夫 『世界征服は可能か?』ちくまプリマー文庫、二〇〇七年 笠井潔他 『社会は存在しないーーセカイ系文化論』南雲堂、二〇〇九年 『ユリイカ』二〇一一年七月増刊号 古谷実 『僕といっしょ』全四巻、講談社ヤンマガKC、一九九八年 ―――― 『グリーンヒル』全四巻、講談社ヤングマガジンコミックス、二〇〇〇年 ―――― 『ヒミズ』全四巻、講談社ヤンマガKC、二〇〇一~〇二年 ―――― 『シガテラ』全六巻、講談社ヤンマガKC、二〇〇三―〇五年 ―――― 『わにとかげぎす』全四巻、講談社ヤングマガジンコミックス、二〇〇六―〇七年 ―――― 『ヒメアノ~ル』全六巻、講談社ヤングマガジンコミックス、二〇〇八―一〇年 前島賢 『セカイ系とは何か』ソフトバンク新書、二〇一〇年 村上裕一 『ゴーストの条件』講談社BOX、二〇一一年 本谷有希子 『ぬるい毒』新潮社、二〇一一年 ―――― 『乱暴と待機』メディアファクトリー文庫、二〇一〇年 ―――― 『幸せ最高ありがとうマジで!』新潮社、二〇〇九年 ―――― 『来来来来来』白水社、二〇一〇年 ―――― 『あの子の考えることは変』講談社、二〇一〇年 ―――― 『ほんたにちゃん』太田出版、二〇〇八年 「現在・過去・未来」 青山景 『ストロボライト』太田出版、二〇〇九年 磯崎憲一郎 『肝心の子供/眼と太陽』河出文庫、二〇一一年 ———— 『世紀の発見』河出書房新社、二〇〇九年 ———— 『終の住処』新潮社、二〇〇九年 ———— 『赤の他人の瓜二つ』講談社、二〇一一年 入不二基義 『時間は実在するか』講談社現代新書、二〇〇二年 ―――― 『時間と絶対と相対と――運命論から何を読み取るべきか』勁草書房、二〇〇七年 加地大介 『なぜ私たちは過去へ行けないのか――ほんとうの哲学入門』哲学書房、二〇〇三年 谷川流 『涼宮ハルヒの暴走』角川スニーカー文庫、二〇〇四年 ―――― 『涼宮ハルヒの憂鬱』角川スニーカー文庫、二〇〇三年 舞城王太郎 『ディスコ探偵水曜日』上中下、新潮文庫、二〇一一年 ―――― 『好き好き大好き超愛してる』講談社文庫、二〇〇八年 ―――― 『九十九十九』講談社文庫、二〇〇七年 ―――― 『イキルキス』講談社、二〇一〇年 ―――― 『ビッチマグネット』新潮社、二〇〇九年 森見登美彦 『四畳半神話大系』角川文庫、二〇〇八年 クリストファー・チャーニアク『最小合理性』柴田正良監訳/中村直行+村中達矢+岡庭宏之訳、勁草書房、二〇〇九年 イアン・ハッキング『記憶を書きかえる――多重人格と心のメカニズム』北沢格訳、早川書房、一九九八年 「謎と吃驚」 黒沢清 『黒沢清の映画術』新潮社、二〇〇六年 ―――― 『黒沢清、21世紀の映画を語る』boid、二〇一一年 市川春子 『虫と歌』講談社アフタヌーンKC、二〇〇九年 ———— 『25時のバカンス』講談社アフタヌーンKC、二〇一一年 円城塔 『Self-Reference ENGINE』ハヤカワ文庫JA、二〇一〇年 ―――― 『Boy's Surface』 ハヤカワ文庫JA、二〇一一年 ―――― 『後藤さんのこと』早川書房、二〇一〇年 ―――― 『烏有此譚』講談社、二〇〇九年 柴崎友香 『寝ても覚めても』河出書房新社、二〇一〇年 ―――― 『ビリジアン』毎日新聞社、二〇一一年 小沼丹 『黒と白の猫』未知谷、二〇〇五年 ―――― 『村のエトランジェ』講談社文芸文庫、二〇〇九年 ―――― 『銀色の鈴』講談社文芸文庫、二〇一〇年 ―――― 『埴輪の馬』講談社文芸文庫、一九九九年 ―――― 『懐中時計』講談社文芸文庫、一九九一年 保坂和志 『プレーンソング』中公文庫、二〇〇〇年 ―――― 『カンバセイション・ピース』新潮社、二〇〇三年 福永信 『アクロバット前夜』リトルモア、二〇〇九年 ―――― 『コップとコッペパンとペン』河出書房新社、二〇〇七年 ―――― 『星座から見た地球』新潮社、二〇一〇年 ―――― 『一一一一一』河出書房新社、二〇一一年 グレッグ・イーガン『宇宙消失』山岸真訳、創元SF文庫、一九九九年 ―――― 『順列都市』山岸真訳、ハヤカワSF文庫、一九九九年 ―――― 『ディアスポラ』山岸真訳、ハヤカワSF文庫、二〇〇五年 ―――― 『万物理論』山岸真訳、創元SF文庫、二〇〇四年 ―――― 『TAP』山岸真訳、河出書房新社、二〇〇八年 ―――― 『ひとりっ子』山岸真訳、ハヤカワSF文庫、二〇〇六年 「ほんとうの哲学」 入不二基義 『哲学の誤読――入試現代文で哲学する!』ちくま新書、二〇〇七年 ―――― 『足の裏に影はあるか?ないか? 哲学随想』朝日出版社、二〇〇九年 大森荘蔵 『大森荘蔵セレクション』平凡社ライブラリー、二〇一二年 九鬼周造 『偶然と驚きの哲学』、書肆心水、二〇〇七年 佐々木中 『夜戦と永遠(上)(下)』河出文庫、二〇一一年 ―――― 『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社、二〇一〇年 中島義道 『後悔と自責の哲学』河出書房新社、二〇〇六年 ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』菅野盾樹訳、ちくま学芸文庫、二〇〇八年 スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳、河出書房新社、二〇〇〇年 ―――― 『「テロル」と戦争――〈現実界〉の砂漠へようこそ』長原豊訳、青土社、二〇〇三年 マイケル・ダメット『真理という謎』藤田晋吾訳、勁草書房、一九八六年 デイヴィッド・ルイス『反事実的条件法』吉満昭宏訳、勁草書房、二〇〇七年 一ノ瀬正樹 『確率と曖昧性の哲学』岩波書店、二〇一一年 「ニッポンを考えるために」 東浩紀 『動物化するポストモダン——オタクから見た日本社会』講談社現代新書、二〇〇一年 東浩紀編 『日本的想像力の未来』NHKブックス、二〇一〇年 東浩紀+大塚英志『リアルのゆくえ――おたく/オタクはどう生きるか』講談社現代新書、二〇〇八年 東浩紀+笠井潔『動物化する世界の中で――全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』集英社新書、二〇〇三年 大澤真幸 『増補・虚構の時代の果て』ちくま学芸文庫、二〇〇九年 大澤真幸編 『アキハバラ発――〈00年代〉への問い』岩波書店、二〇〇八年 大塚英志 『「おたく」の精神史――一九八〇年代論』講談社現代新書、二〇〇四年 ―――― 『物語消滅論――キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』角川oneテーマ21、二〇〇四年 大塚英志+大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川oneテーマ21、二〇〇五年 大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社現代新書、二〇〇一年 『ユリイカ』二〇〇五年八月増刊号 木原善彦 『UFOとポストモダン』平凡社新書、二〇〇六年 濱野智史 『アーキテクチャの生態系』NTT出版、二〇〇八年 三浦大輔 『人間♥失格』創英社、二〇一一年 ―――― 『愛の渦』白水社、二〇〇六年 佐々木敦 『ゴダール・レッスン――あるいは最後から2番目の映画』フィルムアート社、一九九四年 ―――― 『ソフトアンドハード』太田出版、二〇〇五年 ―――― 『「批評」とは何か?――批評家養成ギブス』メディア総合研究所、二〇〇八年 ―――― 『ニッポンの思想』講談社現代新書、二〇〇九年 ―――― 『絶対安全文芸批評』インファス、二〇〇八年 ―――― 『文学拡張マニュアル――ゼロ年代を超えるためのブックガイド』青土社、二〇〇九年 ―――― 『即興の解体/懐胎――演奏と演劇のアポリア』青土社、二〇一一年 #
by ex-po
| 2011-12-27 11:51
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