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【先月の十編】(順不同) 「やさしいため息」青山七恵(文藝春号) 「走ル」羽田圭介(文藝春号) 「かもめの日」黒川創(新潮2月号) 「ペンギンたちは会議する」高橋順子(文學界2月号) 「溶けない」藤野可織(文學界2月号) 「殺人者の夢」安達千夏(すばる2月号) 「長い終わりが始まる」山崎ナオコーラ(群像2月号) 「聖書の煙草」田中慎弥(群像2月号) 「鹿の目」吉村萬壱(群像2月号) 「怪訝山」小池昌代(群像2月号) 【今月の十編】(順不同) 「見返りキメラ」青山真治(新潮3月号) 「鮒のためいき」戌井昭人(新潮3月号) 「あなたたちの恋愛は瀕死」川上未映子(文學界3月号) 「冬蛇」瀬戸良枝(文學界3月号) 「りすん」諏訪哲人(群像3月号) 「ピロティ」佐伯一麦(すばる3月号) 「ナカムラ・パラレログラム」吉原清隆(すばる3月号) 「マミヤ6」中沢けい(すばる3月号) 「ソードリッカー」佐藤憲胤(群像3月号) 「婚礼、葬礼、その他」津村記久子(文學界3月号) 【祝!単行本刊行!】 先月はお休みを戴いたので今回は増頁です。そしてそして、そのパス一回の理由でもあるのですが、この連載が本になりました。題して『絶対安全文芸批評』。連載十五回分に、あちこちに書いてきたブックレビューや長めの作家論などをいっぱい加えて、更に「早稲田文学」の市川真人(にして文芸評論家の前田塁)氏、書評家の豊崎由美氏との豪華二大対談を特別収録しました。西島大介画伯書き下ろしのキュートなイラストをあしらった川名潤さんのブック・デザインが素晴らしいです。書店等で見かけたら、ぜひお手に取ってみてください。よろしくお願いします! 【芥川賞と川上未映子フィーバー】 ということで早速本題に入りましょう。すでにやや旧聞に属しますが、大方の予想通り、第138回芥川賞は川上未映子の「乳と卵」が受賞しました。川上さんの小説については本連載でも何度か言及してきましたが、彼女の独自性と実力は紛うかたなき本物で、芥川はまったくもって妥当だと思います。その上で言うのですが、とはいえしかし常に妥当な人が獲るわけではなかった(というかアレー?ということの方が寧ろ多かった)筈なのが芥川賞。諏訪哲史「アサッテの人」が受賞した前回あたりから、選考委員が入れ替わった効果がプラスに現われてきているという説もありますが(そしてそれはもちろんそうなのですが)、僕にはどうしても、あのりさタンフィーバー(笑)よもう一度的な文芸業界の無意識がどこかに作用してしまったのではないかという気持ちをイマイチ拭えません。なによりも、前田司郎の「誰かが手を、握っているような気がしてならない」も円城塔の「つぎの著者につづく」も磯崎憲一郎の「肝心の子供」も佐藤弘の「シンクロナイズドメロディ」も候補にさえ入ってないのは一寸おかしいよなー、、、と思えてしまいます。これらの作品に「乳と卵」が劣っているわけでは全然ないのですが(でも僕はそれだったら前作であげちゃえばよかったのにとも思いますが)、ただやっぱりスター待望論ってのは昨今の出版不況の折、明らかにあったわけで、川上未映子はまちがいなくあらゆる意味で「スター」になりえるキャラですからね。 『絶安本』の対談で豊崎さんとお目にかかった時はまだ選考前だったのですが、トヨザキ社長は「これは完全な川上シフトだ、これで受賞したら久々の祭りだ」と仰っていて、そして実際に今やちょっとした「祭り」(とは僕の定義だと「文学」の「外部」に「文学」が一時的突発的に激しく滲み出る事態を指します)が起きているわけで、しかし問題は、これが「未映子祭り」ではあっても「文学祭り」では多分ない(新人賞への応募はーーただでさえ増え続けてるのにーー更に増えるかもしれませんが)、ということなのだと思います。この「祭り」は経済効果ではあるかもしれませんが、中長期的に見て「文学」の再活性化にどの程度役に立つことなのかといえば、それは相当微妙というか何というか。第一、一体メディアに出まくる未映子嬢に興味を持つ人々のどれだけが、実際に『乳と卵』を読むのでしょうか(買うのでしょうか、ではない所がミソです)。もちろんのこと、これは川上未映子というひとりの小説家への評価とは別次元の問題ですが、所詮「祭り」なのだから、その間だけ騒いで楽しめばいい、というクールさ(冷淡さ)を、僕はイマイチどうにも抱けないでいます(このあたりについては雑誌「エクス・ポ」での豊崎さんと仲俣暁生さんと僕の連続鼎談「プロフェッショナル読者論」でも大いに語られておりますのでご一読を)。 まあ、あまりグダグダ言うとまた嫌われるのだけど(誰に?)。ということで、では、 ●今月のピックアップA:「あなたたちの恋愛は瀕死」川上未映子(文學界3月号) 受賞第一作です。すでに単行本『乳と卵』に併碌されていますが、とりあえず雑誌掲載ヴァージョンで読みました(単行本版は未確認なのですが時期的にみても大きな改稿は無いのではないかと)。新宿の街中で遭遇した他人同士の男女の間に生じる或る出来事を描いた、掌編といってもいいごく短い作品です。ひょっとすると、実はこれまででもっとも苦労して書かれたのかもしれないとも思えるのだけれど、その分量とは別に、なのにこれまででもっともサラリと読めてしまうという点が些か微妙。それをリーダビリティといってもいいけれど、こちらの読みの運動を押し返す川上さんならではの言葉の表面張力が(おそらくは意図的に)軽減されていて、思えば「わたくし率 イン 歯ー、または世界」から「乳と卵」へのブリッジでも同様のプロセスは見られたわけですが、更にその受賞作の次ということで衆目が集まるであろうことを思えば、この対応は正解なのですが、逆にここでこそたとえば「感じる専門家 採用試験」みたいなヤバいのを出して欲しかったな、とも個人的には思ってしまいました。 掲載号と同じ「文學界」で川上さんは哲学者の永井均氏と「師弟対談」をしているのですが、その中で「私性(わたくし率?)」というようなことに絡めて人称の問題に触れていて、最初に芥川賞候補になった「わたくし率 イン 歯ー、または世界」では、一人称を採用したことで、作中の「わたし」「わたくし」「私」を全部川上さん自身のアイデンティティーの延長として捉えられがちであったのが無念であったと述べつつ、しかしだからといって「二作目で「わたし」から逃げるのが癪だった」ので、次作「乳と卵」も敢て一人称にしたのだと語っています。川上さんのこの「わたし性」と「人称」をめぐる考え方にはなかなか興味深いものがあって、別の場所でも少し触れてみましたが(「現代詩手帖」の連載「インターポエティクス」)、ともあれこの「あなたたちの恋愛は瀕死」は三人称で書かれているのです。しかしここでの「三人称」は、ほんとうはやはり「一人称」であるような気が僕にはします。 この小説にはひとりの「女」とひとりの「男」が出てきますが、地の文である三人称的客観描写の中には、それぞれ「わたし」「僕」というモノローグが挟み込まれています。もちろん、だから一人称だということではなくて、三人称に格納された二つの一人称への距離感が、一見等分であるかに装いつつも明らかに違っていて、具体的には「男=僕」の方が「他者」として描かれている、というよりも、むしろその「僕」の一人称の有様のユルさによって、逆説的に妙に「他者」ぽくなってしまっている。とりわけそれが顕著なのが最後から数えて五番目の段落の「僕」のモノローグで、しかもそれきり「僕」は出てこず、「女」視点の二段落を挿んで、この小説のクライマックスというかカタストロフというべき或るアクションが起こる、その時にはもう「男」としか書かれない、ということを考え併せると、ティッシュ配りのバイトにあまんじる平凡青年にそれ自体平々凡々な怨嗟を脳内で口走らせておくという必要性は理解できても、やはりもすこし工夫があって然るべきではなかったかと思えてしまうのです。「女」「男」とばかり書かれて「彼女」「彼」が一度も出てこないのは明らかに意識的戦略的な書法であるわけですが、だったらいっそ「わたし」と「僕」のプレーンな一人称の交錯で押し切った方がよかったのではないでしょうか。神様視点から描かれる「女」「男」に内臓された「わたし」「僕」という一人称間の不均衡が、誰でもない筈の「神様」を「わたし=女」に通底させてしまっているような気がします。だからこれはやっぱり「作者=神様」である「川上未映子」の「一人称」なのではないかと。 たとえば全く同じストーリーを、あの金原ひとみならば、あからさまな一人称だけで、もっと乱暴に、もっとあっさりと、もっと鮮烈に描くのではないかと思います(すぐさま断っておきますが、もちろん美人作家お二人の才能を比較しているのではありません)。たぶん今のところ川上さんは「こんなことも書ける」や「こんな風にも書ける」という引き出しの披瀝の段階だと思うので、今回の試みを基本的には肯定しますが、おそらく彼女は何らかの筋(らしきもの)があるならば、あんまり短い小説は向かないのではないかと思います。傑作『先端で、さすわさされるわそれええわ』に入っているような「詩」を、いやこれ「小説」だよ,とゆってみせてくれるのなら別ですが。 ●今月のピックアップB:「りすん」諏訪哲人(群像3月号) こちらも芥川賞受賞第一作、しかも長編です。前作にして諏訪氏のデビュー作にして芥川賞受賞作の「アサッテの人」は発想と技巧と主題が緻密かつ大胆に絡み合った正真正銘の傑作だったので、おおいに期待して読みました。りすんとは「LISTEN」ということ(ですよね?)。全編、会話体だけで書かれています。白血病に罹った高校生の妹と、彼女を看病する血の繋がらぬ大学生の兄とが、病室で日々交わす会話を、カーテンで仕切られた隣のベッドに居る謎の女性患者がテープに録音していて、読者はいままさに読みつつある言葉が、その「書き起こし」であるのだということを次第にさとることになります。というわけで、「アサッテの人」と同様に、かなり方法的な野心に富んだ作品で、「喋ったことが言葉=文字になる」という仕掛けが、いつしか「文字であるしかない存在」へと反転してゆく構図は、極めて正統的な意味合いでメタフィクション的です。また、このようなメタさが、これも「アサッテの人」と同じく、最終的には非常に繊細でエモーショナルな実存的悲哀へと落着するという所も実に諏訪氏らしい。突然「アサッテ」の「ポンパ!」も出てきたのには微笑を禁じ得ませんでした。 けれども、正直に言うと、僕はこの作品には、かなり不満が残りました。やろうとしたことは全て理解した上で、第一に、もっと上手にやれたのじゃないかという技術的な問題、そして第二に、作品自体の成立基盤上の部分で、本当にこれでいいのだろうか?という本質的な疑問があります。まず第一の方ですが、とにかくこの小説は徹頭徹尾、喋り口調の連鎖で展開されてゆくわけですが、であるからには、いわばオーラルがリテラルへと変換される際の摩擦や齟齬のようなものを、如何ように処理するのかという点が肝要です。それにしては、にもかかわらず時折、明らかに説明的と思える会話が、かなり無防備な感じで記されてしまっているのは、ちょっとどうなのかなと。もちろん、物語の設定や背景を会話だけで知らせるのはとても難儀なことですから、ある程度は仕方ないのかもしれませんが、もう少しディテールを吟味出来たのではないか、と思ってしまったのです。 ある意味で、諏訪さんの今回のチャレンジは、岡田利規が「三月の5日間」の三つのヴァージョンでやったことに似ています。周知のように、チェルフィッチュの芝居は、「超口語演劇」などとも評されるように、まるでその場で思いつくままに喋ってるみたいなリアルさ(というのはすなわち、われわれが普通に会話するときのような冗長性や不連続性やノイズを有しているということです)が特徴であるわけですが、実際には、それらは基本的にすべて最初から台本に書かれている。よく知られたエピソードですが、そのような手法が創出されるのには、岡田さんがアルバイトで「テープ起こし」をやっていたことがきっかけになっているといいます。しかし、すぐわかるように、実際に岡田利規が行なったことは「書き起こし」とは逆さまなわけです。彼はまず、普通に戯曲が書かれるのと同じやり方で、しかしまるでリアルタイムで喋ってるかのような台詞を書き、次いで、それは俳優たちによって舞台上で演じられました。そして最後に、それは小説化された。戯曲「三月の5日間」と小説「三月の5日間」の間に、舞台「三月の5日間」が挟まっている。両方読んでみると分かりますが、当然のこととして、小説版の方がより説明的になっています。そこで失われたものもあるとは思いますが、すでに戯曲が存在している以上、岡田さんは「りすん」のような会話のみの小説という形式は採用できなかった。 翻って、諏訪氏が今回やっているのは、「三月の5日間」でいえば、いわば「舞台」抜きに「小説」を「戯曲」の形で提示したと言えます。重要なことは「りすん」では、実際(?)には「LISTEN」と呼べる出来事は一切起こっていないということです。あるのは喋り口調の形を取った言葉=文字だけです。それは岡田さんの場合も同じなのですが、諏訪さんにはチェルフィッチュがない。そして、だからこそ、「りすん」の「喋り」は、それが実は「文字」でしかないということを不可避的に引き受けるしかないし、積極的に引き受けていなくてはならない。この作品の主題を端的に表した二つのエピグラフを経た冒頭、兄妹は「ツイスト・アンド・シャウト」を一緒に唄っていて、英語を耳コピでひらがなに落とした「しぇけなべいべな」「ついつぁんしゃ」が印象的なのですが、こういう良い意味でダラダラした、それゆえにこそ効果的と思える部分と、物語を進めるためのツッコミどころアリアリの台詞とが、かなり曖昧なバランスで混在してしまっているような気がするのです。 そこで第二の点ですが、既に述べてきたことにもかかわるのですけど、「りすん」はしかし「LISTEN」と題されてはいても、全編会話だからといって、たとえばこれをそのままCDにしたりラジオ劇にしたりすることは不可能です。この点で、あくまで上演を前提とした台本として在る戯曲版「三月の5日間」とはまったく違うというか真逆なのですが、オーラルがリテラルに変換されているという前提で、その実、リテラルはオーラルでは絶対にありえないということこそがこの小説の主題なのですから、それは当然です。そして繰り返せば、だからこそリテラルはオーラルをもっと巧妙且つ狡猾に装わなくてはならないのだと思うわけですが、仮にそこがもすこし上手に出来ていたとしても、最終的に、まさしく正統的にメタフィクショナルに「文字だけの存在」であることの不幸(?)を体現するこの小説の悲劇のヒロインの姿には、「アサッテの人」ほどの感銘や感動を受けることができませんでした。このやり方は、敢て言うならば古典的な「虚構の虚構性」にいまだもってあぐらをかいているように僕には思えます。「正統的メタフィクション」の系譜上でも、筒井康隆『虚人たち』よりもずっと昔、ほとんどピランデルロ『作者を探す六人の登場人物』ぐらいのレヴェルまで後退してしまっている。簡単に言うと、ここでは「作者」が「作者の死」以後を生きていない。メタフィクションって、とってもカンタンで、しかしだからこそ、とってもムツカシい、のだということを、諏訪氏には肝に銘じていただきたい(エラそうでホントすみません)。 【討論「小説と評論の環境問題」を読んで】 「新潮」の二月、三月号の二号に渡って掲載された、高橋源一郎、田中和生、東浩紀による座談会「小説と評論の環境問題」は、まず組み合わせの妙(?)によって目を惹きますが、内容的にもなかなか興味深いものでした。入口としては、高橋氏が保坂和志との対談の場で口にした「小説のことは小説家にしかわからない」という発言(とはいえ、むしろ保坂さんが以前から同種の主張をしていて、高橋氏はそれに同調してみせた、というのが実相に近いのではないかと)に対して、田中氏がポレミカルに反応し、しかしそれにあんまり高橋氏は直截的には応えなくて、途中から別口で田中バッシングを開始した笙野頼子先生との論争の方に軸足が移ってしまい、しかし田中氏は果敢にその両方を引き受けて応接を展開し、何人かの若手文芸評論家もちょこっとずつ参戦したりしていたところに、今回の討論と相成ったわけで、無論そこになぜか東氏が導入されているのがミソ。この連載でも取り上げましたが、東さんは昨年、桜坂洋とのコラボで「新潮」に「キャラクターズ」という「小説」を発表していて、まずはそれがここでの召喚の理由とされています。 そして、これもまあ容易に予想が着いたことだとは思うのですが、結果としてこの討論は、あんまし本来の「小説家VS評論家」みたいな話題には収斂していかず、この機会に高橋氏と田中氏がガチンコでやりあう、という感じにも全然ならず、むしろ流れ的には「文学」に対して徹底して主体的な価値判断をカッコに括り、どこまでも相対主義的というか、ほとんど唯名論的と言ってもいい立場を貫こうとする東氏に「文学」の愛護者たる田中氏が噛み付き、しまいには「無責任」とさえ口にして東氏も思わずプチ切れしかかり、高橋氏が「まあまあ」と仲裁する、みたいな展開になっています。つまり東氏が、田中氏を含む「文芸評論家」としても、かといって「キャラクターズ」の作者の片割れの「小説家」でもある存在としても、何事かを述べる意思を何ら持ってはおらず、むしろその両者から超然と隔絶した「批評家」としてのみ振る舞っていることで、結果として高橋氏の良い人ぶりと田中氏のよくわからない一徹さだけがやたらと際立つ、というのが読後の感想です。 『絶対安全文芸批評』の著者としては、色々と思う所がありました。そこで、というわけではないのですが、東浩紀さんをゲストにトーク・イヴェントを行ないます。二人だけで話すのは初めてなので、非常に楽しみ。ではまた来月。
by EX-PO
| 2008-05-18 15:03
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