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【今月の十編】(順不同) 「使者」多和田葉子(「新潮」新年号) 「グ、ア、ム」本谷有希子(「新潮」新年号) 「aqua」川上弘美(「新潮」新年号) 「忌まわしき湖の畔で」中原昌也(「新潮」新年号) 「川でうたう子ども」鹿島田真希(「文學界」新年号) 「夢の栓」青来有一(「文學界」新年号) 「黄泉入り前」桑井朋子(「すばる」新年号) 「アンジェール」樋口直哉(「群像」新年号) 「デンマ」金原ひとみ(「群像」新年号) 「舞城小説紙吹雪」舞城王太郎(「群像」新年号) 【今月の概況】 今号から第二シーズンに突入です。ということで、趣向を変えてみました。これまで通り、毎月の全文芸誌を通読した上で、文学シーン(?)の現況(??)に対するコメントをここで述べ、別枠で二作品を取り上げて思ったこと考えたことなどをつらつら書いていこうと思います。 さて。新年号ということで、いずれの雑誌も気合いの入った号となりました。「すばる」の特別企画「「ナゴヤ文学革命」、始まる!?」には驚いたけど。デビュー作=芥川賞の諏訪哲史を始めとして、最近なぜか「ナゴヤ(は愛知県全域を指すのだそう)」出身の新人作家が多いということでの特集なのですが、何を隠そう僕も名古屋出身なもので何となく嬉しくなくもないものの、正直、で?、という気持ちに誰もが陥るのではないかと。他二つの特集が、まず「世界が注ぐ中国へのまなざし」は北京オリンピックにちなんだ企画(なんで今?)。もうひとつが「名作リパッケージ現象」。文化的リサイクルは音楽の世界ではとっくの昔に起きてる現象ですが(映画でも起きてますね)、単純に言うとそれはつまり「新しいものが売れない」からです。でもそれは「売れる新しいものを作れない/作る気がない」ということでもある。光文社の「古典新訳文庫」は素晴らしい企画だと思いますが、『DEATH NOTE』の小畑健に表紙イラストを描かせて再刊した『人間失格』(「すばる」と同じ集英社刊)が売れまくりというのを一緒くたにするのは如何なものでしょう。しかも小畑氏のインタビューまで載ってるし。版元におもねったかのような似非マーケティングリサーチ的な分析記事にも鼻白みました。代わって「文學界」は中村航、鈴木謙介、草野亜紀夫の座談会「ケータイ小説は『作家』を殺すか」。うーんと、「ケータイ小説」は「小説」ではありません。そんなものに殺されてしまうような「作家」なら死んでしまえばよいでしょう。「群像」の特集は「文学の触覚」と題して、川上弘美、松浦寿輝、平野啓一郎、舞城王太郎、穂村弘という豪華メンツの作品とメディア・アーティストとのコラボレーション。東京都写真美術館での同名企画展との連動企画です。写美にはまだ行けてませんが、これはなかなか面白そう。「言葉=文字」と「アート」はけっして相性が悪くない。オーディオ・ヴィジュアルでテクノロジカルな「純文学」だって全然ありえます。その「オーディオ」をやってしまったのが「新潮」の特別付録、我らが古川日出男の選・朗読による日本近現代名詩選CD『詩聖/詩声』。もちろん文芸誌史上初の試みです。立原道造、中原中也、三好達治、宮沢賢治、萩原朔太郎、西脇順三郎、吉岡実、吉増剛造という非の打ち所のないラインナップで、トータル50分を越える録音。フルカワ渾身のヴォイス・パフォーマンスはますます変幻自在の迫力で、聖なる「言葉=音響」が鼓膜を貫通します。これだけでも買いですね。 しかし新年号の最大のトピックは、中原昌也が四誌全てに小説を発表していることでしょう。はっきり言って、これは「事件」です。各誌の表紙に「中原昌也文芸誌全制覇!」とか「同時多発中原昌也!」とかデカデカと載ってても不思議ではないほどの大事なのに、プレゼンテーションとしてはなんだか地味目というか、下手するとほとんどあんまり気付かれないのかも?と思わず心配になりました。でもそんな微妙な不発ぶりも「中原昌也」的と思わないでもないですが。 ●今月のピックアップA:「川でうたう子ども」鹿島田真希(「文學界」新年号) ここ最近の鹿島田真希さんの作品は、見てくれこそ色々ですが、いずれも強烈な「観念小説」です。「観念」というのは、そこに書かれていることの肝が、物語でも主題でも人物でも感情でもなくて、あるひとつの、或いはある幾つかの、新しくも古くもない、つまりは普遍的なといってもいいような、「人間」という形式の底の底にゴロリと居座っている異物みたいなものだと思えるからです。 鹿島田さんにかかると、たとえば恋や愛や性や生も、俄に情動的把握も論理的理解も剥ぎ取られて、不気味な光沢を放つ畸形の石のごとき様相を呈し出します。それは確かに不気味なんですが、時として同時に奇妙にユーモラスでもあります。露出する「観念」があんまり歪過ぎて、そのグロテスクさに思わず笑ってしまうというか、しかしこの笑いは、そもそも「観念」なるものが本質的に備えている属性なのかもしれません。「観念」を「原罪」と呼び換えてもいいのかもしれませんが(周知のように鹿島田さんはロシア正教徒です)、ここには明らかに宗教的含意に留まらない過剰さがあります。 125枚という長さのこの中編は、いつとも知れぬ時代の、どことも知れぬ土地に、知恵遅れの女の私生児として産まれついた娘の生涯を物語る、寓話的要素の強い作品です。不可能な恋愛のヴァリエーションや、男たちに性を鬻ぐ女の受苦を反転させるプロセス、子を持つ者としての両性具有(母親であり父親でもあること)等々、極めて鹿島田さんらしいモチーフがてんこ盛りで、その濃密な言葉の空気感は読んでいて息苦しいほど。 鹿島田さんの文章はどちらかといえば平易なのですが、短いセンテンスの連なりに刻々と孕まれる「観念」の凝縮度があまりにも凄くて、ゆっくりじっくり読み進めないと、何が書かれつつあるのかさえ見失いそうです。川に流された娘は男に捨てられた少女に貰われて、下流の土地で母親からの日々の折檻を受け入れながら成長し、やがて上流へと遡って、男どもに抱かれて乞食にパンを与える聖女のような娼婦になります。彼女は偶然に産みの母親の「墓」に遭遇し、まさに彼女自身のように、そして彼女よりももっと相応しく「パンをたくさん与えた女」と人々に呼ばれる、知恵遅れの女の死んだ年齢にちなんで「二十一行の詩」なるものをたしなむようになります。その詩には「病いの時は、病いになりなさい、死ぬ時は死になさい」という一節があります。「赦し」ということをどのレヴェルに定位するかによって、それはマゾヒズムにもなれば慈愛にもなり得ます。ここでは、過去の鹿島田作品において繰り返し問われてきたテーマを更に純化させた、自己犠牲を自己犠牲とはまったく思わず、悲劇を悲劇としては受け止めない、究極の赦しのさまが描かれていると言ってよいでしょう。 しかしこんな、殆どドストエフスキーみたいなことを、今の時代に、こんなスタイルでやっている鹿島田真希という人は、やはり抜きん出てヘン、いやユニークだと思います。難解と言えば難解な作品ですが、読みの表面張力では勝負する気ゼロの無意味にリーダブルな小説の多い中、この尺をこれだけの読み応えのテンションで持たせるパワーは尋常ではありません。 鹿島田さんは「群像」で初の長編連載「ゼロの王国」もスタートしました。こちらは打って変わって(たぶん)現代の東京を舞台に、徹底的に自己卑下と終わりなき内省を極めるナゾの青年吉田カズヤが主人公。第一回は吉田君がひたすら遠慮してるだけなのですが、無茶苦茶オモシロいです。どういうことをやろうとしてるのかは未だ不明ですが、今後に超期待しています。 ○今月のピックアップB:「使者」多和田葉子(「新潮」新年号) たった4頁の小品ですが(おそらくこれまでの多和田さんの小説の中でもっとも短いのじゃないでしょうか)、恐るべき傑作です。現代詩の世界でも話題を呼んだ詩集『傘の死体とわたしの妻』や、ここ数年、日本でも定期的に聴けるようになった精力的な朗読活動によって披瀝されたのは、日本語とドイツ語でテキストを発表している多和田葉子という作家の、ご本人の言葉を借りれば「エクソフォニー」(母語の外に出ること)としての瞠目すべき進化の有り様であって、独語はこっちが分からないので日本語だけを取ってみても、そこでは言語遊戯というかシュールリアルな自動書記というか、むしろ高度なダジャレ(荻野アンナとは違いますが)にも近い、極めて鋭敏な言語の「書記ー音声」性への感度が伺えます。多和田葉子の世界における、いうなれば「文字」のオーディビリティ(可聴性)へのこだわりについては、拙稿「言葉と物と音について一多和田葉子とカールステン・ニコライ」(『(H)EARーポスト・サイレンスの諸相』所収)を参照してください。 本作は「ミカ」という女性がドイツに旅行することになった「カヨコ」という女友達に、ミュンヘンに住む恩師のドイツ人教授への伝言を頼む、という筋なのですが、ミカは独語をまったく喋れないカヨコにドイツ語の発音を無理矢理日本語に当てはめた暗号のような文章でメッセージを暗記させようとします。要するにソラミミみたいなことなんですが、その奇怪な翻訳の結果として、どうやら過去にミカと教授の間に起こった何らかの秘密にかかわるものと思われる重要な伝言は、意味作用を一切欠いた現代詩のようなワケのわからないものになってしまいます。しかもそのまま小説は終わってしまうので、メッセージの内容はまるっきり謎のまま。まさにベンヤミンもビックリ!(?)のこの鮮やかさ、見事と言うしかありません。ほんとうに短い作品なのに、他にも魅惑的な不可解さが幾つも細部に仕掛けられていて、あらためて多和田さんの才能とセンスに畏れ入った次第です。こういう技は、並の小説家には絶対に真似出来ません。
by EX-PO
| 2008-05-18 15:01
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