カテゴリ
以前の記事
2012年 08月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 フォロー中のブログ
メモ帳
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
わたくし率・一人称・無 引き続き私について考えている。 周知のように、呆気無く芥川賞を貰ってしまった川上未映子の、受賞には至らなかったが候補作にはなったひとつ前の小説のタイトルは「わたくし率 イン 歯ー、または世界」といって、物語的な内容を押さえて一寸言い換えてみるならば、それは「“彼女”を分母とする“私”の割合が“世界”と呼ばれ得るものである」という意味と取れる(歯ーなのは歯医者の話だからです)。前回、私は「見渡す限り、私、私、私だらけ」などと書いたけれど、むしろそれゆえに、やはり私、が問題なのだ、というか、だからこそ、今こそ私、が問題にされねばならないのだ、というのは、おそらく端的な事実であり実感でもあって、その意味で川上未映子の登場は、いわば「平成の私、決定版」とでも言おうか。やや大袈裟に述べてみれば、この「わたくし率」なるものは、長らく「私小説」と呼ばれてきたものと、「詩」における「私性」の有様との双方に渡る、ある紛れもない現在進行形の(いわゆる「ゼロ年代的」な?)見直しと問い直しを、おそらく川上未映子という一個の書き手の才能の如何とは些か別の次元で、俄に惹き起こすものであるように思われるのだ。 「わたくし率が、限りなく無いに近づいて同時に宇宙に膨んでゆく」。件の小説のクライマックスで、一人称の話者はこう曰う。 何の主語のない場所、それがそれじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思うことがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界、思う、それ (「わたくし率 イン 歯ー、または世界」) 純粋経験の一語がなくとも、すぐさま西田幾多郎を想起させるこの一節を承けて、「乳と卵」での芥川賞受賞を記念して掲載誌と同じ雑誌で行なわれた(あまりに見事な人選に思わず唸ったものだが)永井均との「師弟対談」の中で、川上は「新しい「わたし」ということばにもっとこだわりたい」と発言している。この新しい「わたし」には十分なる注意が必要だ。そんな野心も蛮勇も、それらを携えるに足る内実が確かに彼女には備わっていることを承知の上で云うのだが、「私」が「無」となり、それが「世界」とも呼ばれるのだという、このいたって無造作な、ぶっきらぼうでさえある等号の、きわめてクリティカルで問題提起的であると同時に、実は相当にいかがわしく脆くもある「新しい」ありようを、今の川上ならそう口にすればそのまま通ってしまうだろうというメディアハイプとは全く切り離されたところで、よくよく吟味しなくてはならないと思う。 「わたし」ということばを使って、かつ、「わたし」じゃない問題を扱うにはどうすればいいんだと思ったときに、三人称も考えましたけど、一人称を捨てるのが癪で(笑)。(中略)語り手に「わたし」を持って来たときに,何とか私小説百年の歴史が持っているような「わたし」じゃない「わたし」で物語を作ってみたいという気持ちがちょっとあったんですね。 (「哲学とわたくし」) 読まれるとおり、ここでは、ほとんど驚くべきと評してもよいほどの、大がかりな文学史的決意が語られている。しかもこの一人称の「わたし」は「無」への同定を担保している(ことを殊更に表明している)。私には、このさまは「私小説百年」の問題であるだけではなく、むしろより直截的に「平成」の、そして「ゼロ年代」の問題であると思える。詩と批評の雑誌に発表された文章群から成る『先端で、さすわさされるわそらええわ』は、本のどこにも「詩」の一語は記されていないけれど、おそらくは詩集と呼ばれるものであるのだが、そのめくるめく面白さはともかくも、そこにも完全におんなじ「わたし」が沢山居て、小説との違いは物語への宥和の振る舞いが遠慮がちである(冷淡である)ことくらい(それは決定的に重大な違いではある)。当然、詩には無人称だってあるのだが、そっちの方ではなく、一人称であり無でもあるという自覚を以て書き始められ書き連ねられるこの川上的「私」を、たとえば古井由吉ならば、どのように読むのだろうか(前号参照)。 ここで唐突(?)に思い出されるのは、吉本隆明が『日本語のゆくえ』において、若い詩人たちの詩集を纏めて一気読みしてみて抱いた感想が、もっぱら「無」の一言であったと述べていることである。 もう少し「脱出口」みたいなものがあるのかと思っていたけど、それがないことがわかりました。つまり、これから先自分はどういうふうに詩を書いていけるかという、そういう考えが出ているかというと、それはもう全然何もない。やっぱり「無」だなと思うしかないわけです。 いってみれば、「過去」もない、「未来」もない。では「現在」があるのかというと、その現在も何といっていいか見当もつかない「無」なのです。 (『日本語のゆくえ』) これだけ抜くといかにも苦言ぽいが、吉本氏は必ずしも激しく落胆してはいないようではあって(呆れてはいるみたいだが)、この「無」はポジティヴなものでは勿論無いとしても、ただネガティヴでのみあるのではなく、つまりはまあ現状としてはそういうものだね、といった調子で語られている。むしろそれゆえに、事の深刻さが生々しく伝わってもくる。 神話としての現代詩、あるいは神話としての若い人たちの詩ということを考えることはまず不可能だ、(中略)だいたい「無」だよ、ここには何もないよ、というのは何かの兆候だと思いますけれど、そういう兆候だけは非常にはっきりとうかがえた。 「神話」ということの含意は『日本語のゆくえ』で詳しく触れられているが、「歴史」とか「伝統」とか「自然」とかいったことどもを踏まえつつ、実のところ「現代性」とも、ほぼ同意語として機能するような「神話性」ということであり、従ってそれはいわば「私性」の構造的倒置物として、(吉本隆明的には)あらかじめ詩の生起の内に要請されている。そしてそれが無いのなら、本来は「私」だって無い、ということになる筈なのだった。 「無としての(若い)現代詩」。当然、これには大いに反論異論の余地があるだろう。けれども、この何ごとも表現せず表出せず表象もしない「無」としか映らないものが、それでもそれなりに数多の詩の言語を駆動して廻っているのだとしたら、それは「無」ではあっても、おそらく「無意味」ではない。そしてそれは川上未映子的な「わたくし率」のゼロへの漸近が導出(したと)する、一人称の「新しい「わたし」」とも無縁ではない。
by EX-PO
| 2008-05-18 14:53
|
ファン申請 |
||