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「私」のアクチュアリティー 今年最初に読み了えた本は古井由吉の『白暗淵(しろわだ)』だった。ここ数年の古井作品(『辻』『野川』『忿翁』『聖耳』等)と同じく、月刊の文芸誌に約一年に渡り掲載された、それぞれ独立の(だが主題的には縦横に繋がった)短編を列ねた一冊で、連載時の「黙躁」という総題のとおり、いかにも古井的な、黙っていることと躁ぐこととが同じことになる撞着の真理を背景に、時間も空間も虚も実も自在に踏み越えた、峻厳かつなまめかしい言葉の重奏が演じられる。夢うつつのような、睡ったまま覚めているような心地のまま最後の頁を繰った。 ところで、ここでの話は此の本の内容とは些か反れる。『白暗淵』の版元が出している「本」の1月号に古井氏が作品解説的な小文を寄せている。中に次のような記述があった。 小説の中の一人称に、「ぼく」でもなく「わたし」でもなく、「私」という堅苦しいような漢字を、私は使う。この「私」は、私をできるかぎり客体として離すための、用である。「私」は、私から、遠い。 (『白暗淵(しろわだ)』に寄せて) 随想のような始まりから、やがて小説が浮かび上がるのを待つ、のが自分のやり方だと云いつつ、「ただし、この随想の主体も私ではなく「私」である」と古井氏は書いている。「その「私」がこの私の思いも及ばなかったはずのことを、さまざま語ってくれた」。 同じことが「新潮」1月号での福田和也との対談でも語られていた。「還暦に近い村上春樹さんが、いまだに一人称で「僕」を使うのは何故なのか」という福田氏の問いかけに、いや、例えば「第三の新人」も、たとえどんな人称を使っていたとしても、精神としては「僕」だったのではないか、と応じてから古井氏はこう述べている。「なぜ、この古井が小説で、ああいうかたい感じの「私」を使い始めたかといえば、「僕」は使わないぞという意識からなんです」。 日本の文学の一つの逃げ道として、私小説があるわけですが、平成の小説は、その「私」が怪しい、とも思うんです。私イコール主体じゃない形で多くの私小説めいたものが書かれているでしょう。その際、本来は、「私」の内実を分析していくという手続きがなくてはいけないんですよ。 (「平成の文学について」) すぐわかるように、ここでは二つのことが問題にされているのだが、「私」と「僕」の別の件には差し当たりあまり興味がない(福田氏はそちらに関心があるようだが)。むしろ二つの引用における、私と「私」の関係と、「主体/客体」という言い方に拘りたくなる。生身の私(=書く自分=主体)が(私)小説では「私(=書かれる自分=客体)」になるのだというような単純なことは古井氏は云ってない。その逆で、生身の私が小説の「私」によって客体にされるというのである。ところが、「平成の小説」ではその機構が失調をきたしている…勿論ここでは、古井由吉独特の「私」なるものの融け出しが前提されている。「「私」というのは、丸々「私」ではないんで、両親や先祖が半分以上入っていますから」。「私」の内実には「私ども」や「私ならざるもの」や「私の前の私」や「かつて私であったもの」等々も含まれるということだ。確かに今やそれは甚だ怪しい。「私」が私に縮減してしまう簡単さへの異和はしかし、私見では、殊更「平成の小説」においては最早後戻りの出来ない、素朴で単純な、それゆえにある意味では頑強でもあるだろう不可逆的変容のひとつのアスペクトを映すものでしかない。見渡す限り、私、私、私だらけだ。それでも「私」から私への距離はゼロではない筈なのに、その道程を無意識の内に見失うことで起動する言葉が蔓延している。果ては主体でも客体でもおんなじことになる。 さて、では「平成の詩」についてもそれは同様だろうか。 詩は小説のような意味での虚構ではないので、ほんとうは「私」は別に居なくてもよい。それは私だけでよしということではなくて、「私」が語っている/私が語られているときにも、人称は別に不在で構わないというか、そもそも詩には人称が非在でさえあ(りえ)る(のかもしれない)。どちらかといえば詩は違うやり方で、凡そ「私」みたいな何かを仮構しようとする(余談だけれど、とりわけ初期の高橋源一郎の「現代詩」へのやたらな拘泥ぶりは、たぶんこの辺りと深く関係がある)。だがしかし、むしろだからこそ、詩の人称のありさまには、詩の中の私と「私」の出現の風景には、おそらく「平成の小説」とは重なりつつも又別個の問題が宿っているのだとも思えてくる。 矢っ張りね、と嗤われるのを承知で続けると、谷川俊太郎の新しい詩集はそのものずばり『私』と題されていて、冒頭には同名の連作が置かれている。二編から部分を引用する。 「私」に会いに 国道を斜めに折れて県道に入り また右折して村道を行った突き当たりに 「私」が住んでいる この私ではないもうひとりの「私」だ (中略) 私は母によって生まれた私 「私」は言語によって生まれた私 どっちがほんとうの私なのか 私は私 私は自分が誰か知っています いま私はここにいますが すぐにいなくなるかもしれません いなくなっても私は私ですが ほんとは私は私でなくてもいいのです (中略) 「私は私」というトートロジーを超えて 私は私です 古井由吉との共振はあまりにも明らかだろう。だが谷川氏の場合、最終的には「私」より私を大切にしようとしている(少なくともそう宣言していると見える)。それは『私』の冒頭に据えられたのが「自己紹介」という作品であることにも端的に現われている。 しかし、見誤ってはならないのは、谷川俊太郎という固有名は、そもそもの最初から、「私」への齟齬と葛藤する私、をひとつの大きな主題としていたという点で、「詩」において稀有足り得てきたのだという事実だ。今、ここで、あっさりと「私」と言ってのけ(られ)る詩人は、その振る舞いが一見したところ、古井由吉が憂う「平成の小説」の「私」と多少とも相似していたとしても、年期も覚悟もまるきり異なるのだ。だから無論それは、誰がやっても許されるというわけではない。
by EX-PO
| 2008-05-18 14:52
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