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「妄想」の終わりと「現実」の果て 「劇団、本谷有希子」の『偏路』のひとつ前の公演『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』を観終わって、僕は思わず素朴に感動してしまうとともに、本谷さんの聡明さというかしたたかさというかマジメさに、あらためてというのも何ですが、思いっきり舌を捲く想いを抱いたのだった。 この作品が描いているのは、端折って言えば要するに「妄想世界」と「現実世界」との二項対立だ。さびれた遊園地を親にせびった金で買い取り、そこに自殺志願者のBBSで引っ掛けた女たち(一人オカマだけど)を閉じ込めて、容姿年齢(+性別)などの違いにかかわらず全員に同じ格好をさせて同じ仕草と同じセリフを教え込み、忘れられない今はなき(?)幻の恋人を演じさせている青年。いつもウサギの耳を付けている彼は、ミもフタもない言い方をすれば一種の「脳内妄想オタ」であり、遊園地という空間は彼の自閉的な夢と希望が歪な形で実体化した場所だということが出来る。「現実」ではけっして獲得できない(と少なくとも本人は思っている)欲望の実現を、とりあえず「妄想」の中だけでもいいから成就させようとする、というパターンは、いわゆるヴァーチャル・リアリティ的な考え方が出てきてからますます増加したことは言うまでもないが、それ以前からまあ、よくあるといえばまったくよくある設定の一つではある。 『ファイナルファンタジック〜』が、しかしその種のよくある系とは決定的に異なっている、決定的に先に進んでいると思えたのは、このような「妄想」と「現実」との対立は、もともとは「現実」があまりにもツラいので「妄想」に逃げ込む(しかない)ということであって、「萌え」以後そこに更に「脳内妹(=恋人)で何が悪いワケ?、だって現実ヒドいじゃん!」という本田透的な、それ自体としてはかなり説得的でもあるポジティヴな開き直り感が加わって、「妄想」の方が名実ともに優位に置かれるようになり、最初はあった筈の引け目とか諦め感みたいなものが急激に払拭されていった、ということだと思うのだが、『ファイナル〜』のウサミミ青年にとっては、「妄想」を維持し強化し続けることの方が、実はずっとツラくてしんどくて、ほんとうは「現実」に復帰した方がはるかに一足飛びに幸福になれるのかもしれない、ということが次第に判明してくる、という所なのだ。にもかかわらず、彼はそう簡単には「妄想」を捨てることが出来ない、自らが造り上げた「妄想」から出てくることがなかなか出来ないのだ。 これは非常に鋭いな、と僕は思った。一見したところ、ここで二項対立はふたたび転倒されている。とはいっても「妄想」に対して「現実」に一方的に軍配を上げ、オタの皆さん、脳内恋人はやっぱりダメよと叱咤激励しているのともちょっと違う。本谷さんがやっていることはもっと複雑だし、繊細だ。もしも単純に「妄想→×/現実→○」ということが言いたいだけなら、こんな設定は必要ないだろう。『ファ〜』が提示していたのは、だから通り一遍の「現実に還れ」などというメッセージではない。ここには、酷薄な「現実」に比肩し得るような甘美な「妄想」を人は時としてどうしても必要とする、ということをちゃんと認めた上で、しかしそれでもなお、人は「妄想」のみに生きることは出来はしないし、たとえ出来たとしてもそれはやはり幸福でありはしない、ということも同時に述べられているのだ。 つまり「妄想バンザイ」でも「現実バンザイ」でもなく、どっちも人間には必須なのだが、どっちにも良いことと良くないことがある、という当たり前のようだがしばしば失念されてしまう真理が、『フ〜』の最終的なメッセージだったのだと思う。「現実派」に対しては「妄想」の不可避を擁護しつつ、「妄想派」には「現実」の不可避を説く、そんな極めて絶妙なバランス感に富んだ姿勢が、ここにはある。そしてしかし、それは本谷有希子という人が、二項対立の両軸に配慮できるようなバランス感覚に優れた性格だからということではたぶんまったくなくて、むしろ彼女自身が、このような「現実/妄想」の可能性とその限界、そしてその不可避性をも、身をもって味わったことがあるからなのだろう、と僕は思っている。 「妄想」とはいわば、「現実」においては果たされるかどうかわからない、おそらくは果たされることのない「理想」の想像上のリアライズである。「理想」と「現実」のギャップは誰にとっても存在するが、本谷さんの登場人物たちにとっては(そして「本谷有希子」にとっても)、そのギャップがあまりにも険し過ぎて、結果として「現実」への何らかの破壊行為に至ったり、「妄想」へと逃げ込んだりすることになる。そのいずれのベクトルも、とてつもなくエクストリームであることが、本谷さんの過去の作品のオリジナリティとインパクトを保証していたのだが、『ファイナルファンタジックスーパーノーフラット』では、そのベクトルは極端さを極めたあげくに、新たな段階に入ったという感じがする。「アンチ現実」としての「妄想」の先にあるものを、そして「ポスト妄想」としての「現実」の先にあるものを、本谷さんはちゃんと見据えようとしている。これはやはり、成長と呼んで差し支えのないことだと思う。そしてそれは彼女が小説において、最初期の「江利子と絶対」→三島賞候補作『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』→芥川賞候補作『生きてるだけで、愛。』と、見事にホップステップジャンプしてきたのともパラレルだ。 それだけに今度の『偏路』が、いかなる作品に仕上がっているのか、僕は非常に興味津々でいる。それはもしかしたら、いわば「第二期、本谷有希子」の始まりを告げるものであるかもしれないからである。「妄想」の終わりと「現実」の果てに、いったい何があるのか(何もないのか?)、それをマジメに考えることは本当はちょっとコワいけれど、ほとんど野生の本能とも思えるような勘の良さで、果敢にやみくもに前へ前へと突き進んでいく「本谷有希子」によって、僕らは目をそむけたい「現実」と安住できない「妄想」の両方と対峙して、「いま、ここ」を生きるための本物のリアリズムを手にしようとしているのだ。 註:この原稿は『偏路』の公演を観る前に書いたものです(戯曲も読んでませんでした)。実際の作品は、ここで僕が予想/期待したものとは、いささか違ったものになっていたと思います。
by EX-PO
| 2008-05-18 14:46
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