カテゴリ
以前の記事
2012年 08月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 フォロー中のブログ
メモ帳
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
なるほど確かに、全国で書店の数が長らく減少傾向にあるとか、出版市場の売り上げ嵩が右肩下がりの一方だとか聞くと、明らかにこの国の活字文化は今や危機に瀕しているのだと思えてくる(それはおそらく「この国」だけのことではあるまいが)。それは実感としても確かにそうなのだが、しかし同時に、いわゆるケータイ小説がベストセラーの上位を独占?したなどという話もあって、読まれるものと読み方が変わっただけで、書かれ読まれる言葉それ自体はかならずしも危機というわけでもない、ただ印刷メディアというものがもはや時代遅れであるということに過ぎないのだという説もありはして、そうきっぱり言われてしまうと、それもそうなのかな、という感じもしてくるのだ。 個人的には、自分は別段、本を買うことも、文字を読むことも辞めるつもりはないし、読みたい本や買いたい本が致命的になくなってきている、という気も特にはしていない。たとえ今後に、おおきな経済的行ないとしては成立しなくなったとしても、いわば一種の趣味としてであれ、出版という営みが完全に潰えてしまうことはないだろうし、であれば自分は本を買い、読み続けるだろう。少なくとも自分が生きているあいだに限るなら、まだまだ「危機」が本格的になるには猶予があるようにも思える。いずれにせよ自分が読みたい買いたいような本は、とっくの昔に危機に瀕していたのだ。実際、たとえばいわゆる人文系の書物の場合は、それはもちろん、疑いなく全体の売れゆきは減ってきていて、それゆえおそらく、ある書き手の本が出版に至るかどうかというボーダーラインはより厳しくなっているのだろうとは思うものの、その結果として老舗の良心的な出版社が点数を控えざるを得なくなるとともに、それに替わる新しく若い版元が実は次々と登場してきている。それはつまり、リスクを分散させるシステムが、そういった本を必要としている人々のあいだで、意識的にであれ無意識的にであれ働いているということで、それはとても健康的なことであると思える。 だから自分は、いわゆる単行本についてはそれほど悲観はしていない。むしろ問題なのは、雑誌のほうではないかと思える。それは端的に、読むことの出来る雑誌が、どんどん減ってきているように思えるからだ。雑誌のなかで読むことの出来る部分が、どんどん減っているように思えるからである。雑誌の刊行点数はもしかしたら寧ろどんどん増えているのかもしれないが、読める雑誌は非常に少ない。これは自分のような古いタイプの雑誌好きとしては深刻なことだ。そしてこのことはもちろん、先の「活字離れ」ということと、密接に繋がっている。 私事になってしまうが、もうかれこれ二十年近く、あちこちの雑誌に文章を提供し、対価を戴くという形で生活を立ててきた。いわゆる専門誌なら、映画雑誌、音楽誌、文芸誌など。カルチャー誌やファッション誌で連載を持っていたこともあるし、週刊誌でコラムやレビュー、インタビュー記事などを担当していた時期もあった。それら沢山の雑誌の仕事がなければ自分は生きてこられなかったし、そこに書き散らした文章の幾つかは後にまとめられて数冊の本にもなった。その意味で自分は読者としてだけではなく、ひとりの物書きとしても雑誌というものがルーツだと自認しており、いま現在もいくつかの雑誌で連載を持っている。 ところで、たとえば自分が定期的に原稿を寄せているある雑誌が誌面のリニューアルを行なったとする。コンテンツ(目次/内容)をいじらないのであれば、それはつまりデザインやレイアウト、すなわちページの見た目を変更するということを往々にして意味しているのだが、その場合にきわめてしばしば起こってきたことは、同じ企画の記事であっても文字量を減らすという対応だった。わかりやすく言うと、写真とテキストで一頁を占める記事があったとして、それまでは2000字であったのが、リニューアル後は1500字で、というようなことだ。そしてそのかわりに、写真を大きくしたり、点数を増やしたり、ホワイトスペースを増やしたりする、というわけである。 自分自身は、与えられた文字数で書きたいこと、書くべきことを収める技術をそれなりに蓄えてきているし、だからそれはそれで構わないのだが(原稿料が減ってしまうのは困るけれども)、いざ読者としての自分に翻ってみると、かなり複雑な気持ちになってくる。確かにレイアウトの世界では、あまり文字がぎちぎちになっていると読みにくい、という常識はあるのだろうし、それは正しいとも思うのだが、しかしどうしても頭をもたげてしまうのは、ただ読みやすくすればそれでいいのか、という問いである。 もっと文字を減らして、もっとルックをすっきりさせて読みやすく、というのは、そうしなければ読んでもらえない、という危機意識の現われだとも思うのだが、まず「文字が多いと読みにくい」から「文字を少なくすれば読みやすい」という論理(?)の流れ自体が、自分にとっては承服しがたい。「読んでもらうために文字を減らす」という考え方は、どこか奇怪な感じがしてしまうのだ。その言い分においては、雑誌の読者は、その雑誌を読んでいるにもかかわらず、読むことに対して後ろ向きな、ちょっと退屈したり飽きたり疲れたりしたら、すぐさま誌面から目を離して頁をぱったり閉じてしまうような人間として想定されている。確かに、そういう人も多いのかもしれないが、そもそも読まれるために有償で提供されるはずの雑誌というものを現に手に取っている者の基準を、そこに置かなければならないと考える理屈は一体どこから生じてくるのだろう。それはまるで、あたかも文字を提供している側が、自ら先んじて「読みとばす」ことを推奨しているようにさえ思えてくるのである。 このことは一つには、雑誌というものが、読まれるためのもの、というよりも、情報を提供するもの、という方向へとシフトし、それを次第に強めてきてしまった、という事情があるのだと思う。情報へと還元できるような言葉の集積であるならば、なるべく効率的であるほうがよいに決まっている。そうなるともう文体であるとか書き手の個性であるとかは邪魔でしかなく、出来るだけプレーンで簡潔な言葉がよしとされる。しかし考えてみるまでもなく、そこのみを重心とするのなら、ラジオやテレビ、そしてインターネットという同時性、速報性に長けたメディアに印刷物が勝てるわけはないのであって、現在の雑誌不況の原因はまずそこにあると言っていいだろう。有用性ばかりを前面に押し出していった結果、紙媒体としての有用性の弱さがあからさまに露出してしまったというわけである。となると、そこで思いつくのは 文字ではなくヴィジュアルで見せよう、ということになってくる。こうしてますます文字数は減ることになる。 それが一面の真実を突いていることは勿論だが、しかし雑誌の作り手たちは、あまりにも先回りをして「読んでもらえない」可能性に手当てをし過ぎたのではないだろうか。その結果、雑誌はいつしか「読みとばす」どころか「読み捨てる」ことを進んで善しとしているようなものになってしまったように思える。もちろん、経済的に成立している雑誌の多くが、実際に売れていることではなく、頁の何割かを占める広告の収入で成り立っていることが常態となって久しい現在、読みとばされ読み捨てられることは別段困ったことではなく、ことによると望ましいことでさえあるのかもしれないのだが、しかしその時、置いていかれているのは、雑誌をほんとうに「読みたい」と思っている、自分のようなごく普通の読者なのである。こうして雑誌は「読者」を失い、ただ「消費者」だけが残る。いや、もっと悪くするとそこには「消費者」さえ必要ではなく、書店に並べられる以前に既に決着の付いている商業だけがあるのかもしれない(本当に儲かっている雑誌の多くは実は決して売れていない、というのは雑誌業界における隠された常識だ)。 読める雑誌が、読みたい雑誌が少ない。それはもうほとんどありそうにない。ならば自分で作ってしまおう、という一種の妄想が胚胎したのは、いつのことだったか。なかば狂った雑誌読者の欲望は、日に日に具体的な形を取っていった。どうしたらいいのかは寧ろ簡単だった。今ある雑誌の大方の真逆をやればいいのだ。すなわち、文字量を増やす、内容を詰め込む、すっきりの反対、「読んでもらえない」可能性など屁でもない。ちゃんと読む気にならなければ読めないが、読んだら読んだだけの甲斐のある言葉がそこにあればいいのだ。読みやすさへの過剰な配慮と、読みとばされ読み捨てられることへの擦り寄りは、実のところ「読者」への裏返された蔑視でしかない、と断じること。それとはまるきり逆さまに、いっそ「読者」に負荷をかけること。「読者」にもある種の労働を強いること。つまり、ポジティヴに誌面に向き合わなければ読むことさえ適わない、しかしその能動性に見合うだけの「読み」の価値をちゃんと携えた雑誌を作ればいいのである。 もとより、そこでの「価値」は私的なそれから出発するしかない。つまり、まず誰よりも、この私が読みたい雑誌を作る、ということだ。だが、それは個人的な趣味に終始するものであってもならない。それは未知の読者へと開かれたものである必要がある。しかしかといって、それは誰にでもやみくもに開かれているということではない。その雑誌の「読者」になるためには、多少の努力をしなくてはならない。何よりも第一に、そこでは「雑誌」とは読むためのものである、という嘗てはあらためて述べるまでもなかった真理を再確認することを求められるだろう。 とはいえしかし、私は時間もお金も持てあました好事家というわけではまったくない。したがって、完全な道楽で雑誌を一冊立ち上げてみようかというような、呑気な考えで居るわけではない。そうではなくて、これは積極的に、この国の活字文化の衰退とされる傾向に対する挑戦なのである。とすれば、経済的にも成立させなければならない。だが、インターネットのブラウザを、携帯電話のディスプレイを開けば、お金をいちいち払わなくても(それは実際には無料ではないが)言葉が溢れまくっている現在、幾らかのお金と引き換えに提供される言葉、というだけでも分が悪いのかもしれない。とするなら、コストを軽減することと、以上述べてきたような雑誌のコンセプトを合致させられるようなアイデアを捻り出そう……そして思いついたのが、頁数を極端に少なくするという発想である。紙媒体の予算の大半が印刷経費であることは言うまでもない。われわれは通常、出版社側に一方的に利益を齎すための広告を載せるための数多の頁に要する印刷費を上乗せされた値段を支払わされている。ならばそれはすべて取り払い、返す刀で極端に頁を減らしてしまおう。その代わりに、その一頁に昨今の雑誌の趨勢からは非常識を超えて異常ともされかねないほどの文字量を格納してしまおう。当然、文字のフォントはかなり小さくなり、レイアウトは「読みにくく」なる。だがそれは「読めない」というのとはまったく違う。ただ、読むためにちょっとばかり苦労が要るだけのことである。単純計算として、この雑誌の一頁には同じような体裁の普通の雑誌の三倍から四倍くらいの文字が入っている。しかしコストは何分の一かなのだ。そうであれば、それは現実的にも可能なアイデアなのではないか。やってみるだけのことは、もしかしたら多少はある試みなのではないだろうか。 こうして私は、ほんとうに新しい雑誌を始めることにしたのだ。それはかなり実験的な、ほとんど無謀なことであるかもしれない。だがしかし、それは実はごく当たり前の、古き良き昔ならばごく当たり前のことだった、「読まれるための雑誌」を作る、ということなのだ。
by ex-po
| 2007-12-31 18:54
|
ファン申請 |
||