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■写真の原理に向かう写真家 木村 外側にルールを設定している気がするんですね。カメラに撮ってもらっている話とかお伺いしていると。いわばカメラはブラックボックスで、それ自体は機械で何ら意志はないというところに、可能な限り人間の行為をゆだねていくというルールに従わせていくこと自体が、ルールを外在化することですよね。私小説や私写真と言うものでは出てこない、内面の唯一性を担保してしまう表現では出てこない、ルールを外側に置くことからはじまる人間の行動とか、「生きる」ということとかがあると僕は思っています。このことは、写真がカメラの構図そのものを語るようなものとして出てきてたりすることにつながるのかなと思うのですが。 ホンマ 写真の原理自体に興味がある人が増えているのがあると思うんですね。野口里佳さんのピンホールカメラとか、鈴木理策さんが雪を撮っていて真っ白なんだけど、それが印画紙の白なのか雪なのか分からないとか。写真そのものみたいなことにあえて戻ろうという人たちは僕を含めて、写真をやる上で出てきているのかと思いますけどね。 佐々木 どうして写真なのかと。 ホンマ そうですね。その中でカメラを撮る人から独立させてというのは、そうさせるための手法のひとつだと思いますね。 佐々木 写真の原理に向かう写真家が散見されるようになってきているというのは、やっぱり歴史的な必然がどこかであるのかもしれないとも思っちゃうんですけど。 ホンマ それは時代的なものはあると思います。東京で同じように写真の仕事をやってて、いろんな状況を見てて、同世代で同じようなことを考えていれば、似たようなことにたどり着くというのは。音楽もそうで、絶対にひとつのグループとして出ますよね。 佐々木 お互いに知らなくても似たようなものを見ているからね。最初の方の話で、写真は商業的な部分があるから、技術の問題があったとして、ホンマさんは既に長いキャリアがあって、技術的な研鑽というか、うまい写真をある条件を与えられたときに、相対的にうまいと言われるような写真を撮ること自体は出来ちゃうと思うんですよ。うまい下手というのがどこで線引きされるのかというのも、素人には分かりにくい部分があったりするんだけど、ある種の技術的な巧さみたいなものと、今日話してくれてるようなアプローチがどこかで関係しているのか、それは別の問題なのか興味があって。たとえば、中平さんみたいなことを、もしかしたら写真の使い方もよく分からない子どもとかがやっちゃうかもしれないですよね。でもそれはその人が撮っているとはおそらく言えない。それは技術じゃない。でも技術があった上で、そういうことを目指すことの難しさと面白さがあるんだと思うんですよ。 ホンマ でも中平さんの写真は素人には絶対に撮れませんよ。 佐々木 なるほど。そこにはやはり技術的な何かがあると。 ホンマ それを技術と言っていいのかどうかは甚だ疑問なんだけれど、単純にいえば、中平さんは150キロの直球をど真ん中に投げ続けているんですよね。素人は150キロの直球は投げられないですからね。強度だと思うんですね。中平さんに関しては。僕らはどうかっていうと・・・うーん。人の写真を見ておもしろいなって思うのはだいたい現代美術の人の写真ですね。 木村 できればもう少し、その150キロの直球というものが、例えば、子どもが初めてデジカメを手にしてパッパッと撮る、などとどう違うのか聞かせてください。言葉にしにくいことだと思うんですけど。 ホンマ 物理的に・・・125分の1の8秒でしか撮らないということも、それを続けられて、まったく似たような被写体を撮り続けるということが、他の人に物理的にできるかってことですよね。実際中平さんっぽい写真ってみたことないですからね。 木村 絵だったら画力というかテクニックのこととして輪郭づけることのできるポイントだと思うんですけど、シャッターを押す際の腕力って・・・。あるいはそうではなくて続けるっていうところにこそとてつもなく・・・。 ホンマ どういうことかというと、たとえば卵焼きが大好きだとしますよね。普通の人はそれを3食1週間食えます? 中平さんは結局それを食っているということですよ。それがうまいか下手かということではないんですよね。食べようと思えば食べられますよね。それを1週間食べ続けられるか?どうか?ということなんですよ、中平さんは。毎回毎回忘れているからね、卵焼きを食べたということを。そこはやっぱり珍しいことなんですよ。 佐々木 写真って心理が写っちゃうというときに、写そうとしなくても写っちゃう心理を極力写らないようにしていくベクトルがあったとして、それが極限までいったとしても、でもやっぱり人間は残るみたいなことだと思うんですよ。中平という人を心理的に理解しようとしても不可能ですよね。本人の中にさえ自覚がないから。積み上げられていく認識もないし。逆説的に言うと、それが中平卓馬という人間だということにやっぱりなっていて、全自動機械が写真を撮り続けているわけではない。人間というモノが残って、心理とか感情がどれだけ縮減していっても、人間は残るということで、それはホンマさんにしても同じことじゃないかなと思うんです。 ホンマ そうですね。それはそうだと思いますね。そのことって勘違いされやすくて、分かりやすい作家論みたいなのに言われやすいのとは中平さんは違うかな。普通に作家論を書いている人は中平さんのことは書けないんですよね。書いたらすぐに終わっちゃうから(笑)。答えが出てるから。 佐々木 ある意味、身も蓋もない。 ホンマ そこが僕にとってすごく気持ちがいいんですよね。 佐々木 ホンマさんにとって中平さんという人がまったく別格の人として、写真家としてだけじゃないかもしれないけど、まさに人間としてというか、そういう人がいることという事実への驚嘆がある。 ホンマ そうですね。中平さんのことに対しては僕もそんなに簡単に言い切れるものではないんですけど。やっぱり大きな何かではあるんですよね。 佐々木 決して中平卓馬ではありえないホンマタカシという人間が、中平卓馬が結果的にやってしまっていることへのアンサーみたいな意味で自分の試みを続けていこうとするときに、今の方法論でまだまだ出来ることがあるんだと思うんですけど。『NEW WAVES』以降みたいなことでもいいのだけれと、インタビューでも「永遠に波を撮り続けていてもいい、波の写真集を出し続けていてもいい」という風におっしゃっていたけれど、それもまた可能なことだとは思うけど、それ以外というか、このベクトルの中で次に試みられることがあるんだとすると、それはどういうことなのかなと。 ホンマ 僕も日々考えていることなんですけど、写真の原理的なところに戻ってやっていくのと、とにかく写真を撮り続けるということ。現実的には。一回もう『NEW WAVES』みたいに世界を見るようになっちゃったから、その感覚ではずっと撮っていくと思いますね。 佐々木 その前の段階には戻ろうと思ってももう戻れない。 ホンマ そういうことですね。 佐々木 それはそれでしんどいっちゃしんどいですよね。 ホンマ だから日常をただスナップしたりするだけというのはありえないというか、作品としてはないかなあというのかな。ただまあ、しんどいとは思ってなくて、やりたいことがどちらかと言えばあり過ぎて(笑)。 佐々木 10年前より今の方が全然自由だと。 ホンマ 全然自由ですね。自由だしやりたいこともいっぱいあるから。それまで生きていられるかなくらい(笑)。 木村 比較的前半の方で、撮り続けたいんだとおっしゃってて、それにすごく共感するというか、僕はどちらかというとダンスとか演劇とかの批評側にいますけど、やっぱり「踊り続けたい」という人を「見続けたい」と思っているんですね。それはやっぱりただ踊っているんじゃなくて、さっきの記憶を消すみたいな方向にすごく近くて、自分が作ってしまったものを常に壊し続けながら、先ほどお話しした言葉で言うと、外側に何かを設定するといったような自分を空っぽにしていくような仕方で、でなければ達成できないようなことが僕にとって「続ける」ってことなんですね。例えば、僕の専門分野のひとつに暗黒舞踏があります。その創始者土方巽という人は「踊りとは命がけで突っ立った死体である」と言って、暗黒舞踏というのを「死体」が踊る踊りであると考えるんですね。それはもちろんレトリックで、死体の状態を踊らせようという考え方なんです。で、僕はその考え方に非常に惹かれるところがあるんですけど。生きて働いているときに作ってしまうルールや慣習を内側に設定したものを常に裏切っていくやり方で、ダンサーとして人体を死体化していくと。その常に矛盾を孕んでいる状態が踊っているんだとしたら、それを続けるのは非常に大変だし、けれども、それこそ「見続けたい」ものなんです。 ホンマ 絶えず満足しないというか、常にもっとこういう風にしようと思っているってことですよね。毎回完全に自分を殺してやっていくって方が言い方としてはかっこいいけど、現実的には多分・・・絶えず実験していくっていうか、まあ出したものが絶えず未完成ってことなのかな(笑)。これが完璧だって風に言えないもん。 佐々木 これが完璧だったらおかしいですよね(笑)。決定的瞬間だらけってことに。 ホンマ これにのりしろがあるっていうか。 佐々木 今日の話は何回もそういうことになったけど、すごく両義的なところがあって、たとえば『NEW WAVES』はたくさん撮った中で偶々これなんですって言い方をホンマさんは出来るし、このヴァージョン違いを10冊でも100冊でも作れるよってことにもなると思うんだけど、にも関わらず、これを一冊の写真集という作品として見てしまうと、やっぱりすごく美しいわけですよ。そのパラドックスが面白いと思うんですね。でもそこに安住することも出来ない。写真を原理的に考えれば考えるほど、写真を撮ることが容易ではなくなっていくのだけど、でも撮るという試み自体、ホンマさんにとってすごく意味があるんだと思う。だからこそ外側から見ると、なぜ写真なのか、という問いが出てくる。 ホンマ 写真は1回1回止めて、さっきの話で言うと1回1回殺しているわけですよね。けど、なんだろうな、映画とか小説みたいに起承転結があるものじゃないから、そういう意味では実際の感覚にもう少し近いというか、それこそピークがなくずっと撮れる。ずーっと表現できる。(ヴォルフガング・)ティルマンスなんかは、毎年20点いい写真が撮れればいいという言い方をしていて、だから「2007—01」という作品なんですよ。ずっと続けていけるから、写真はすごくいいと思いますね。現実の知覚には時間がないというのを逆説的に写真がいちばん向いているんじゃないかなと思いますね。映画や小説だと起承転結を決めないといけないから。かなり今こうやって話していたり生きていたりするのとは離れますよね。という気はする。 佐々木 それはすごく面白い。演劇でも小説でも映画でも、プロセスがあるから、起承転結があるということは、因果が生じてしまうというか、こうでこうでこうしてこうなったねっていうのが、本当はそうなってなくても、そう読み取ることが出来てしまうわけなんだけど、しかし現実にはそういうものがあまりなくて。 ホンマ ないんですよね。 佐々木 ないのに、なぜか物語があるという。 ホンマ 普通はダラダラ続くわけじゃないですか。そのことができるのはやはり写真と・・・。 佐々木 アンディ・ウォーホルがエンパイア・ステート・ビルを7時間延々と撮るというのをやっているんだけど、それでも7時間という有限の時間であれば、そこには最初と最後が生じてしまうということでは、実は普通の映画とあまり変わらない部分があったりして。だからたぶんその方法では絶対に現実を相手には出来ないんですよね。だから逆に瞬間でいくということなのかな。 ホンマ それを写真は個人が死ぬまでできるから、後は波にしても毎年撮ってもいいわけだから。そういい意味では逆説的ですけど、現実にフィットしているのかなあと思いますね。ちょこちょこ撮っているから、ちゃんとした1本の劇映画を撮らないんですかってたまに言われたりするんだけど、「え、何で撮んなきゃいけないの」って言ってる(笑)。 佐々木 どうやったら撮る理由が出てくるんだよって(笑)。 ホンマ そうそう。中平さんに関してはもうちょっと映像を撮ろうとは思ってるんですけどね。 佐々木 もう少し継続して。 ホンマ そうですね。今度は本当に延々と中平さんがタバコを吸っているところの繰り返しとかになっちゃうんですかね。 佐々木 今日は想像通りにすごく面白い話が聞けました。 写真から音楽へ ホンマ 音楽はそういうことをやっている人はいるんですかね。 佐々木 うーん。そういうことを考えざるを得なくなった人は、多いわけじゃないけどいるとは思いますけど。音楽の場合も、どうしても人間性や感情的なことが関係してくるし、聴く方も何かを勝手に受け取るから、それこそホンマさんが『NEW WAVES』でやっていることを音でやろうとすると、たとえば波の音をフィールドレコーディングして100枚組のCDにしたとするじゃないですか。それは似ていることかもしれないけど、きっと音の方がもっと情緒的な受け取り方をしてしまうかもしれない。それをどう排除するかというのは音は結構難しいような気がする。 ホンマ ジョン・ケージが考えてたんじゃないですか。 佐々木 その出発点はケージが考えたことかなとは思うんですけど。耳はすごく攻撃的に受動的なところがあるから。勝手に聞いちゃうから、耳って。よく言うんだけど、目と耳の違いは、耳には「瞼」がないことだと思うんですよ。目はとりあえずつぶればいいじゃないですか。でも耳はほっといても何か聞こえちゃう。それは何かを聴くことは別のことなんだけど、本当は別のことじゃなくて、本当は聞こえているというのが本質なんです。人間の耳がスピーカーだとしたら、ずっと何かの音が聞こえているわけです。そういう意味では耳はすごく無防備だし、そこでたとえば、よくHearとListenの違いみたいなことを言うんだけど、HearをListenに転換した時に、そこで変な対象化みたいなのが生まれてしまって、聴くことの神秘主義化が生まれてしまったりもする。そこは難しいところですね。 ホンマ 偶然をテーマにしている人もいるんですかね。 佐々木 ケージにもチャンス・オペレーションというのがあるけど、偶然も結構難しいですよね。 ホンマ 難しいでしょうね(笑)。 佐々木 チャンス・オペレーション的にランダムに音を拾うようなシステムを開発して、人間がいないところで音を記録してCDにしたとしても、それを聴く人はそれそのものを聴いてるんじゃなくて、そのシステムを聴いている、そういうことをやりましたよっていう認識を確認するために聴いている部分がある。 ホンマ スケッチみたいな感じはどうですか。 佐々木 テープレコーダーをいろいろなところに持っていって録ったりっていうことをやる人は結構いたりしますけど。フィールド・レコーディングは可能性があることだと思うけど、角田俊也さんという方がすごく性能の良いコンタクトマイクとかで、道のアスファルトとか構造物とかに仕掛けると、人間の耳には聞き取れないけど鳴っている振動が録音出来るんですよ。それを記録して、時間と場所を明示した形で作品にするということをやっている。実際に聴くとゴーとかドーンとか鳴ってるわけ。 ホンマ そうだよね(笑)。 佐々木 彼はそういう意味ではHearとListenを考え抜いてやっているなっていう気はしますね。 ホンマ 普通に気ままにギターを弾いたらポップミュージックになっちゃうんですかね。 佐々木 なっちゃうでしょうね。うまい下手は別にして。音楽の場合は本当に人間がやることなので、難しいですね。僕も色々とそういうことを考えてみたりしますけど。 ホンマ 表現の困難さという意味では、今小説を書くことってどうなんですかね。 佐々木 小説を書きたい人は多いみたいですね。 ホンマ 多いですよね(笑)。 佐々木 ホンマさんが気持ち悪いと思っている、関係性を撮るっていうことは、結局は自分語りっていうことですよね。自己表現ってことが、そういう言葉を使っているかどうかは別としても、皆したいんですよ。自己表現ってことは、実は自分の存在を承認されたいっていう、逆に言うと承認されていないっていう不安感があるから、ということから表現を始めようとしている人があまりにも多くて。何か表現をしている人っていうのは、そういう「私性」の延長だけに終始してしまうというのが圧倒的に多いのが現状じゃないですかね。 ホンマ そう考えるとブログの延長ですね。 佐々木 ブログが一般的になって多少解消されたんじゃないかと。 ホンマ (笑)。だといいけど。 佐々木 小説の新人賞の応募は、本が売れなくなるのとはパラレルに増えていっているというし、たとえば『美術手帖』とかも「アーティストになるには」みたいな特集の時だけ突出して売れるらしいんです。写真雑誌とかもそうですよね。そういう人が多い中で、そういうことだけはしまいっていう人が相当困難になっているということなんじゃないか。世間で受ける人ってキャラ立ちみたいな人ばかりだし。でもホンマさんはこういうベクトルに向かってから逆に元気になっているように見える。 ホンマ 僕自身は困難だと思ってないので……えーやめて下さいよ(笑) 佐々木 端から見るとすごい困難なところに入っていっているようにも見えるんだけど。楽しそうですよね。今すごく波に乗っている。 ホンマ うーん、まだまだですけどね。これから15年くらいに乗ろうと思ってます↑ (協力:森陽子、パルコ出版) ホンマタカシ……1962年東京生まれ。1999年『東京郊外』で第24回木村伊兵衛写真賞受賞、新世代を代表する作家として国内外で活躍。『NEW WAVES』『東京の子供』『Tokyo and my Daughter』『きわめてよいふうけい』ほか著作多数。
by ex-po
| 2011-12-28 12:24
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