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■きわめてよいふうけいー中平卓馬 ホンマ 言葉には全然できていなかったけど、やっぱり違和感は絶えずあって。僕は写真をやろうと思ったのが遅くて大学に入ってからだったから。その頃の日芸の写真部は、高校の写真部長クラスが集まっていて、みんな詳しかったんですよ。でもそれだけじゃあ息苦しいなあというのはずっと感じていた。そう考えると音楽は、なんでそんなに早く表現としてポスト・モダン化したんですかね。 佐々木 まあ音楽は写真よりも相対的にポピュラーな文化だから、やっている人の数が多いから、煮詰まるのも早かったんじゃないかなと。やっぱり相対的には表現としての写真というとハイアートじゃないですか。そういう部分でよくも悪くも保護されるというか、ある種の可能性みたいなものが進化の途中でデッドエンドを迎えるようなことに至らない状態のままで進むことができたところがあったのかなという気がしますけどね。物理的な数の問題で。 ホンマ それとやっぱり写真は商業と結びついているから、作品としてじゃない写真があふれているから、うまく撮れるとか、あの人はうまいというのも生き残ったのかと思うんですけどね。写真という芸術だけだったら、早く表現のチェンジがあったと思うんだけど、やっぱりうまい人が必要な仕事っていっぱいありますよね。そういう意味では、映画はいまだになかなか進化しませんよね。 佐々木 そうですよね。映画は物語が撮れちゃうから。そっちの方向でなんとなく展開できちゃう気がするけど。 ホンマ 永遠に物語ですよね。 佐々木 もしかしたら最初に写真に向かい合ったときから、大方の写真を使って表現をしている人とはまったく別のことをやろうとしていたのかもしれないというのがあったとして、それでもそれを自覚的に意識的にやれるようになったのは、おそらくここ10年くらいのことなんじゃないかと思うんですが、そうなっていくきっかけというか、大きな要因として、中平卓馬の映画(*)をホンマさんが作ったじゃないですか。 ---------------------------- (*)中平卓馬の映画…『きわめてよいふうけい』。撮影、監督ホンマタカシ。製作リトルモア。2004年公開。 ---------------------------- ホンマ 中平さんはやっぱり僕のすごく奥のほうにあるんですよね。中平さんが今やっているカラー写真はすごく僕にとっては、なんて言うんだろうなあ、好きとかじゃなくて、表現の本当に極地をいっていると思うんですよね。それに中平さんが情緒的な夜のワイドレンズのボケから、あそこに転換したということが、すごく重要だと思うし、奇跡的なことだと思うんですよね。だから僕は中平さんの昔の写真は全然好きじゃないんです。 佐々木 ああ、そうなんだ。じゃあ本当に『なぜ、植物図鑑か』(*)っていうか、本当に「植物図鑑」になって以後が重要なんだと。 ---------------------------- (*)『なぜ、植物図鑑か』…中平卓馬著。初版は晶文社より1973年に刊行。2007年にちくま学芸文庫より再刊された。中平の評論を纏めた書籍としては、他に『見続ける涯に火が…批評集成1965—1977』(オシリス)がある。 ---------------------------- ホンマ そうですね。だから長い間、森山さんの写真もよく分からなかった。 佐々木 森山大道もそうですが、いわゆるブレ・ボケ派みたいな写真家のエコールから中平は出発した。にもかかわらず、中平さんは今から見るとちょっと考えられないような変化を、他の人ではあり得ないような形でしちゃった人ですよね。事故に遭って記憶がなくなっちゃったわけじゃないですか。理論家、批評家としての中平卓馬が「植物図鑑」と言ったとしても、実際に「植物図鑑」的な写真を撮り始めたのは記憶を失って以降ですよね。そうすると、その身体的な事故はどうしても決定的に重要な意味を持ちますよね。 ホンマ それは本当に事故によるものとしかいいようがなくて、人間はそんなに簡単には変われませんよ。僕や佐々木さんだって、こういうところをなおしたいとか、こういう風な人になりたいとかあっても絶対に無理だから。でも中平さんは、本当に奇跡的なことだと思いますね。それぐらいじゃないと人間変われないですよね。しかも中平さんは自分で分かってたわけじゃないですか。情緒的なことを排して植物図鑑のように撮りたい、撮るべきだって言ったけど、実際はそれが長い間できなかった。事故で記憶がなくなって初めてそれが出来るようになった。そんなことがなければ簡単には変われないし、そんな風にして変わったっていうのは、多分世界中の表現者を見てもあんまりいないと思いますね。 佐々木 意図して出来ることじゃないですからね。 ホンマ 吉本隆明が転向したとか、とはちょっと違うじゃないですか。中平さんの場合、人間が変わっちゃたようなものだから。それが森山さんたちにとってもショックであり、うらやましいと思ったんじゃないかな。 佐々木 中平さんの映画を撮ろうと思ったのは、ホンマさんにとって驚きみたいなものがあったってことですよね。 ホンマ そうですね。それから、なんでなんだろう?っていうことですね。 佐々木 あの映画を作る過程で、撮影をするというよりも、半ば生活をともにする形で作ってるじゃないですか。そのときにご本人に触れて何か発見はあったんですか。 ホンマ うーん、正直言って、人間的に中平さんを好きになったというのは別にして、あまりそれはないというか、あのアプローチで映画をやったのはちょっと間違いだったかなと思うんですよね。今の段階では。今だったらもうちょっと違うやり方をできたんじゃないかっていうのと、それと、初めて言うんだけど、中平さんを使ってある実験をしたんですよ。実験というか。中平さんはマッチでタバコを吸うんですよ。マッチを外に向けて擦るか自分に向けて擦るか、大きく分けて2通りありますよね。マッチする人をまず実験して、大人だったら、外に向けて擦る人は10回ともそうするんですよ。初めてマッチを擦る子どもは、どうつけていいか分からないから、いろいろやるんです。で、2回目やったときはうまく付いた方向にしか擦らない。大人なら絶対に固定化しちゃうんです。それで中平さんはどうやるかというと、2回に1回、外に向けたり内に向けたりで着火に成功するの。まったくランダム。それはどういうことかというと、これは仮説ですけど、1回1回の記憶がないんです。1回1回があの人にとっては生まれて初めて。 佐々木 映画に出てくる日記もそれですよね。 ホンマ その後やろうと思ってたのは、中平さんは3日4日でフィルム1本撮るのかな。ベタを見ると、何度も何度も同じものを撮ってるんですよ。被写体が限られてるんです。だからその仮説からいくと、毎回初めてその被写体を見て、初めて撮ってると思うんですよ。それがすごく驚きで。そういうシナリオで映画を作ればよかったなって今は思ってるんです。 佐々木 それはすごい話で、さっき言ったように、カメラで写真を撮るときには、カメラのレンズの向こうにそれを覗いている人間の瞳が必ずある、その瞳の向こうには脳や心があるということになってるわけですけど、そこをどう切断するかということになったときに、中平さんという人は、結果的にそういう身体的な事故があってというのはあるんだけど、要はカメラそのものになっちゃってるんですよね。カメラには心理がないから、どんな映像でも何回でも撮るじゃないですか。それと同じことに結果的になっている。それが人間によって成されているということへの驚きってことですよね。 ホンマ あとは現実的なことで中平さんの今のカラー写真がすごく奇跡的だっていうのは、マニュアルのカメラを使っているんですけど、125分の1の8秒に位置に固定してあるんですよ。変えないのね。その露出のときに写る写真だけが写されている。撮りたい写真によって明るさを変えたりしないのね。100のフィルムを入れてるんだけど、天気のいい日にしか原理的には写らない。だからああいう写真になるわけ。調整してああしているわけじゃないんですよ。 佐々木 それ以外は写ってない。 ホンマ それ以外は真っ黒か真っ白なんです。 佐々木 ご本人に写真を撮っているという意識があるのかも相当怪しい。 ホンマ そうですね。撮影しに行くとは言っているけど、あの写真にそれだけの強度を感じる理由のひとつなんでしょうね。 佐々木 今までの話は自分がずっと考えてきたことにシンクロしていると思ったんですけど、僕がホンマさんがやっていることに辿り着いたのには、ひとつには即興演奏について考えていることがあって、インプロヴィゼーションをしているときに、その人の中で何が起きているんだろうと考えたときに、ただ単にその場で作曲するということではなくて、その人自身が1秒先に何を弾くか分かってないような形で演奏していくっていう、音がどんどんその前のオーダーを裏切っていくのが理想的なインプロだとすると、そういうことを人間はどうしても出来ないんですよ。絶対に癖もでるし、ある時間の経過の中で音が鳴っていると、その音の中での変化のあり方が必ず決まってきて、それを裏切ることも含めて定められた選択可能性でしかないから、つまり時間というものがあって人間に記憶力がある以上、本当の意味でのインプロは出来ないんですよ。でも、だとしたら記憶喪失になればいいんだと考えたことがあるんですよ。つまり自分が鳴らしたばかりの音をその瞬間ごとに忘れていっちゃえば、絶対に次に出す音は新しい。 ホンマ それは中平さんですね。 佐々木 でもそれって出来ないわけじゃないですか。中平さんも、それをそうしようと思っているのではなくて、彼の場合は、それが理想であるということを事故に遭う前に予告していたってことがすごいんだけど、予告して実践するために事故に遭ったわけじゃないから。だからこれは結果論じゃないですか。中平卓馬がすごいとしても、ホンマタカシという人が同じ方法論でやるわけにはいかないですよね。だとしたら事故に遭わずにどうすればああいうことが出来るのかっていう話になるんだと思うんです。それこそが、もしかしたらずっと試みていることなのかなって。 ホンマ 絶対無理だけど、そうするにはカメラに任すしかないですよね。 佐々木 撮ってから現像されますよね、そのときには写真を選びますよね。選ぶときの判断の基準というのはどういう形で設定しているんですか。 ホンマ 理想はやっぱり選ばないことですよね。撮ったものを全部というのはいずれやりたいですね。選ぶってことは、そこは矛盾ですよね。作為が入ってしまう。ただおもしろいのは、中平さんの話に戻すと中平さんも選ぶんだよね(笑)。どうしてこれを選んだのか聞きたいんだけど、「これとこれだね〜」っていつも2枚組にするんですよ。 佐々木 ああそれで最近の作品は2枚なんだ。 ホンマ 2枚組というのがどっから来たのか、雑誌のレイアウトから来ているのかなあ。でも選びますね。自分で。 佐々木 現在の中平卓馬ならではの美学的な価値判断が作動しているってことですよね。でもそれがどういう基準なのかは端から見ててもよく分からない。 ホンマ 分からないんですね。 佐々木 波を撮ったら全部を載せたいということに、たとえば建物をちょっと変わった構図で撮るとか、真正面から撮るとかいうアプローチをかなり意識的にやってらっしゃるわけじゃないですか。ベッヒャー夫妻(*)の一連の建物写真を思い出したりするんだけど、でもベッヒャーの場合は本当に図鑑なんですね。ベッヒャーにも私性をどう切断するかという問いはあったと思うんです。でもベッヒャー的な試みとホンマさんがやっていることにはやっぱり差異があると思うんです。そこはどういう風になっているのか知りたかったんですけど。 ---------------------------- (*)ベッヒャー夫妻…ベルント・ベッヒャー&ヒラ・ベッヒャー。水塔、冷却塔、溶鉱炉など、ドイツ戦前の建築物を主観を排して撮影し、機能や形状などに即して機械的に並列するタイポロジー(類型学)というスタイルが多くの影響を与えた。 ---------------------------- ホンマ ベッヒャーがやっていることとちょっと違って、ベッヒャーは本当に私性をなくした図鑑作りじゃないですか。それって多分ドイツ人でオーガスト・サンダーという20世紀の人類図鑑を作ろうとした人がいるくらい、意図的にあるんだと思うんですよね。多分それとは違って、環境というと勘違いされるけど、人間にとっての環境レイアウトに興味があってアイスランドなり建築を撮っているんですね。 佐々木 エコロジー・マイナス・ロハスみたいなことですよね(笑)。 ホンマ ギブソンははっきり言っていて、自然物も人工物も一緒だって。 佐々木 なるほどね。 ホンマ たとえばこの机と壁の間をすり抜けることは人間の環境にとって、この机や壁が草だろうが環境としての情報は同じじゃないですか。通るときの環境としては。多分そういうことがやりたいんだと思うんですよね。『NEW WAVES』を出したときも、やっぱり波とか海とか好きなんですかと聞かれるんだけど、まったく興味ないと答えているんだけど(笑)。いろんな波のレイアウトがあるというか、ひとつとして同じ波はこないということに対してしか僕は興味がないんですよね。 佐々木 人も写ってないし。人間性の切断というか人間性を完全に排除して、ただの機械というわけにはいかないということですよね。 ホンマ いかないし、そこに興味は別にないかなあ。 木村 図鑑であれば、正面からもっとも客観的に対象を撮るわけですよね。 ホンマ これはそう撮ってないですから。 木村 そうですよね。そうするとやっぱり対象との距離感とか残っていくってことですよね。 ホンマ それと多分、人間の通り道を撮っているのかも知れない。この人間が移動するための配置を撮っているのかも。そこが決定的に違う。 佐々木 実は建物や構造物のプロポーションにもまったく興味がないということなんですよね。 ホンマ ただ、郊外独特のニュータウンやニュービルディングの独特の立ち方や配置であるとか、通り道に興味があって、そこを撮っているんだと思うんですよ。撮っているとき にそれを考えたわけじゃなくて、アフォーダンスを読んでそう思ったんですけど。
by ex-po
| 2011-12-28 12:24
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