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■アフォーダンス 佐々木 『NEW WAVES』の前段階で、アイスランドもの(*)や、建築の写真(*)などがあるじゃないですか。たぶんその2つの方法論は繋がっているんだろうけど、対象としては大きく違う部分がありますよね。つまり建物の場合は基本的に不動じゃないですか。それ自体は動かないし変化していかない。でも波の場合はひたすら変化していく。その2つを同じ写真という行為の中に表象していこうとするときに、そこがどういう風に繋がっていってるのかという興味があったんですけど。作業としては並行しているわけですよね。 ----------------------------- (*)アイスランドもの…『Hyper Ballad : Icelandic Suburban Landscapes』(1997年、スイッチ・パブリッシングなど)。 (*)青木淳やSANAA(妹島和世+西沢立衛)の設計物など、ホンマ氏は数多くの建築写真を手掛けている。12月6日まで、表参道の「ギャラリーホワイトトウキョー」にて、20世紀を代表する建築を撮影した写真展「ARCHITECTUAL LANDSCAPES」を開催中。http://www.g-whiteroom.com/ ----------------------------- ホンマ そうですね。いろんなことが複合しているとは思うんですけど、まず波の写真は当然みんなが撮っているし、建物の写真もいってみれば不動産の折り込み広告のようにあえて撮っているところがあって、そのアプローチの仕方は僕の中ではまったく同じなんですよね。波や建築物をスナップっぽくずらして撮ることもできるんだけど、あえてその手法をどーんと正面から受けて、なおかつ今の定義で写真を出したいということがあって。ちょっと言い方は難しいですけど、正面からがーんといってるんだけど、勝負するのは差異じゃないですか。最低値の差異ですよね。それはやりたいんだと思うんですけど、それプラス、世界の見方というのが、アフォーダンス的なことを読んで自分が世界に対して感じていることはこういうことなんだっていうのことを後で納得がいったんです。 佐々木 やってるときは何かわからないけれど、こういうことをやりたいっていう何かがあったと。 ホンマ そうなんですよ。『アイスランドの郊外』っていうのは、アイスランドは全体で世田谷区くらいしかないんですよ。『東京郊外』(*)だと、このファミレス撮ろう、高速道路撮ろうってすごく計画的に押さえていったんです。でもアイスランドは広がってる郊外の中にどれとしてここを撮った方がいいというのがないんです。決定的なものがなくて、全部同じなんです。同じようにある中を、僕は身体的にどんどん撮れるっていう感覚を初めて味わったんです。写真家じゃないとわかりづらいのかも知れないけど。たとえば、町中を撮るとき、「探して」撮りますよね。 ----------------------------- (*)『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』…光琳社出版。1998年刊。木村伊兵衛写真賞受賞。 ----------------------------- 佐々木 ここが絵になる、みたいなことですよね。 ホンマ そう。アイスランドのときは「どこでもいい」という感覚を初めて味わった。それは僕にとっては不思議な感覚だったんですけど、それはアフォーダンス的なことを後から読んだときに、一戸一戸の物件とかではなくて、あくまでひとつの町のレイアウトとして考えれば、それは当然等価だし、その等価度を東京から離れたところで感じたんだなと思います。東京だとやっぱりわかっちゃいますよね。 佐々木 ホンマタカシという個人の記憶も移動しちゃうから。 ホンマ 写真は当然そういう記憶を撮るものだっていう教えがあるじゃないですか(笑)。それを逆にアイスランドでは自由に感じたんです。全然関係性はないんだけど、町のレイアウトだけでいくらでも撮れたということに気持ちよさを感じて、これは何なんだろうと考えていて、アフォーダンスを読んでこういうことなんじゃないかなって。まあ僕の意訳ですけどね。アフォーダンスをプロパーでやってる人から見たら違うかも知れないけど、僕の中では腑に落ちたし、佐々木先生と話したときも(*)腑に落ちたんですよね。 ---------------------------- (*)佐々木先生と話したときも…「環境と写真」ホンマタカシ×佐々木正人(『包まれるヒトー〈環境〉の存在論』岩波書店)等。佐々木正人は東京大学教授。生態心理学。 ---------------------------- 佐々木 小説でいえば私小説みたいな、私写真といってもいいけど、それを意識してやるのか、結果的にそうなってしまっているのかは別にしても、人間と人間の関係性を結果的に撮ってしまう写真というのが強烈にあるということなんだと思うんですよ。ところが、『NEW WAVES』の場合はファインダーを見てもいないわけですよね。カメラという機械がじっとそのイメージを定着していて、ホンマさんはシャッターを押したりしているかもしれないけど、実は見ているわけじゃない。我々が写真を見るときにどうしても、カメラが撮っているんだけど、写真家の瞳の延長として、写真家が見たイメージとして見るから、そこに人間が写っていれば、撮った人との関係性を読み込もうとする。そういうものへの違和感がカメラを自立させていったというか、そういう方向に自然に向かっていったのかなと思うんですけど。 ホンマ まったくその通りだし、でもそれは特殊なことではなくて、鈴木理策という人がやった展覧会でのインタビューに答えたとき、「カメラに撮ってもらっている」という言い方をしてて。それは同時代的な写真が撮りづらい状況の中でやっていく間では、何人かはやっぱり同じように感じているんだと思うんですよ。当たり前の事というか。それと、僕が考えているのは、とにかく撮り続けたいんですよ。撮り続けるためにはどうするかと考えると、たとえば私小説的なこと、たとえばその人とすごい関係を築いて撮る。それを延々と続けられるのは矛盾で、同じ強度ではありえない。それをナン・ゴールディンや荒木さんはやろうとしているんだけど、ナン・ゴールディンは実際できていないんだけど。それはやっぱり嘘だなって思うんですよね。荒木さんは、ずるいから、それをわかってやってるわけじゃないですか。だから荒木さんは偉いなと思うんですけど。荒木さんに影響を単純に受けて始めた人は矛盾を感じて撮れなくなっちゃうと思うんですよね。それはしたくないので、撮り続けるためのことを考えると、カメラに任せて撮るというのはひとつの方法としてあるんじゃないかな。 佐々木 決定的瞬間という考え方が、ある重要な考え方として、ずっと写真の歴史が続いてるわけじゃないですか。それはつまり、放っておいたらずっと流れていってしまう時間の中に決定的瞬間があって、それをうまくフォーカスして写真という固定したイメージにするということのような感じなんだけど、そこを裏返すと、撮っちゃったものというか、イメージとして固定されたものは、ある意味つねに決定的な瞬間になっちゃうということがあると思うんですよ。たとえば、連続する動きの中で決定的瞬間を撮ったということにされている写真があったとして、見る人はそれは決定的瞬間だというコノテーションと一緒に見るから、そうかなって思うんだけど、それって0.001秒ずれていても決定的瞬間だったかもしれないわけで、撮られたことによって決定的瞬間に逆になってしまうという写真のマジックみたいなものがある。 ホンマ これだって決定的瞬間じゃないっていったって、あいだがないから、厳密にはそうではないんだけど、そのつもりで撮ってますっていうことなんですよ。映画もコマとコマの間に撮られなかったコマがあるわけないですか。でも現実にその時間は流れているし。アフォーダンスを読んでいちばん僕がはっとしたのは、現実の視覚には時間がないというところ。ギブソン(*)が言っているんですけど。写真だったらこれとこれとこれを撮ってというと時間が付いてしまうけど、今は僕は佐々木さんを同時に見ているわけじゃないですか。同時に存在しているわけだし。そのことはすごくはっとしましたね。それをどうにか写真に生かせないかなということを考えて。アイスランドで僕はそれをやったんじゃないかなと思うんです。もちろん順番はあるけど、それを入れ替えてもいいわけだし。そのことは、決定的瞬間だけを捕らえていた写真だけを考えていたから、はっとしましたね。波に関しては、カメラに任せて撮っているという意味では、ひとつの大きい波の場所、光や環境に包まれているという感じはすごくしましたね。それに身を任せて撮るのが気持ちいい。あとはファインダーを覗かないで、ただただ撮っている。 ---------------------------- (*)ジェームズ・J・ギブソン(1904〜1979)。アメリカの生態心理学者。アフォーダンスの提唱者。『生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る』(サイエンス社)など。 ---------------------------- 佐々木 ずっと変化していて、どれだけ微分しても変化の過程でしかないというときに、それをひとつの固定した写真という形に捕らえていくことのある種の、いい意味での倒錯みたいなものがあるんだと思うんですけど。これは写真なわけじゃないですか。でも映画やビデオにしちゃったら、本当にただ変化しているだけになりますよね。それも本当は見えていることの連続でしかないんだけど、少なくとも写真よりは連続性になるには違いない。でも波というものの変容し続ける様をイメージにしようとしたときに、動く映像ではなくて、写真に敢て落とし込むことへの困難への挑戦があると思うんですけど。 ホンマ 映像で撮ったら当たり前になりすぎちゃうんですよね。それをあえて写真でやる方がおもしろいんじゃないかなと思う。 佐々木 しかも連続写真みたいにはなってないわけですからね。これはカメラが撮っているだけなんだと聞くと、すごく音楽との関連性みたいなのを感じるんですけど、音楽を作ったり演奏したりするっていうのは、最初は人間が歌でやっていて次は楽器になるわけですけど、楽器はやはり身体の延長なんですよ。ギターを弾いたり笛を吹いたりするのも手や口でやっているから、そういう形で身体性がどこまでも延長されていくみたいになるんだけど、電子楽器が出てきたときに身体から切り離されるわけですよ。その人がどうであろうと、機械が働いていると音が出ちゃうときに、その音っていうものを、でもそれは自分が作った音なんだっていって再度身体に取り込むことがテクノ以後の音楽の作り方であって、要は本当は機械がやっていることなわけです。作曲でさえある意味ではコンピュータという機械がやっていることであっても、それはそれを操っている人の表現でもあるということになっていく。これはそれ以前とは全然違う。このこととカメラの自立性というのはシンクロしていると思うんですけど。 ホンマ 写真はその電子音楽が出てきたというところから始めるべきだったんですよ。それなのにそれ以前のギターくらいのところで止まっているというか。ギターのようにカメラは身体感覚の延長で操作して写真を表現できるという幻想が長い間続いていたと思う。カメラが勝手に撮っちゃう、電子音楽が勝手に作っちゃうというところを意識的にやっている写真家が少なくて。だいたいそれは現代美術家と呼ばれる人が、写真を道具として使っている場合しかない。写真家はやっぱりどうしても身体能力でうまく撮れる人みたいに長い間きちゃったんじゃないかと思う。特に日本はそうだと思うんですよ。 佐々木 カメラを持った者の身体能力とか人間性とか、そういうものと撮る写真とが分かちがたく結びついているみたいな。それも私映画ってことだと思うんですけど。そういうことと自分がやりたいことが根本的に違うんだっていうのは相当初期から、写真をやろうと思った出発点から、ホンマさんの中にはあったということですか。
by ex-po
| 2011-12-28 12:25
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