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すでに単行本に入ってる文章ですが、『恋する原発』刊行を記念(?)して、ここにアプしておきます。 「黙秘権を行使します」ーー高橋源一郎論 (『絶対安全文芸批評』より) やってみます。そうです。どっちみちわたしはやるに決まっていますから。 『ジョン・レノン対火星人』 * 「高橋源一郎」的「問題」とは、つまるところ、次のようなものだ。 書けないことを書くにはどうしたらいいのか? こんなたったの一行に還元できる「問題」に、ひたすら「高橋源一郎」はこだわり続けている。登場した時からそうだったし、途中もずーっとそうで、今も(たぶんますます)そうだ。 では「書けないこと」とは何か?。ここには、「書き得ないこと」ということと、「書きたくないこと」ということ、の二つの意味の次元があって、そしてその二つはかなりややこしく絡み合っている。そして更に、それらの少し下の方には、「書くべきでないこと」とか「書いても仕方のないこと」とか「書くのが面倒くさいこと」とかがあったりする。ともかくも「高橋源一郎」にとって、「書けないこと」へのこだわりは、そのまま「書くこと」の起動力であり、つまりは「書くこと」の存在理由でさえある。 「高橋源一郎」は、「書けないということ」を、確認し反復し強化しながらも(彼はそうせずにはいられない)、それに必死で抗って(彼はそうせずにもいられない)、それゆえにこそ「書く」(そうしなくてもいいのかもしれないと彼は時々思う)。結果として「高橋源一郎」の「小説」は、極度の抵抗/摩擦との闘争の場の相貌を露骨に帯びることとなり、それは時として奇妙にいさましく見えたり、奇妙に滑稽に見えたり、ひどくかなしく見えたり、ひどくだらしなく見えたりもする。 現在の作家で、これほどまでに「書けないこと」に絶えず直面しつつ「書いて」いるのは、他には「中原昌也」ぐらいしか見当たらない。「高橋源一郎」がしばしば表明してきた「中原昌也」へのシンパシー(?)は、何よりもこの点から理解されるべきだろう。両者にはもちろん色々な、相当に大きな違いがありもするが、しかしやっていることの根っ子にあるものは、実はとてもよく似ている。すなわち「書くこと」の否定の否定としての「書くこと」。それでもなお「書いているということ」への恥ずかしさと開き直りの繰り返し。 「書き得ないことを書くにはどうしたらいいのか?」。がしかし、とはいえこの「書き得ないということ」を、何て言うんですか、いわゆるひとつの「表象不可能性」の「問題」というの?、もっとざっくりと「言語」の「問題」というの?、まあそのようなこととして(のみ)考えるのは、一見深いようでいて案外まるで深くない。というか大体、僕は(僕は!)最近ますます、いわゆる「表象不可能」というのは、結局は為にする「問題」でしかない、と疑っています。これは「映画」とかでも同じことだが、ほらここに「表象不可能」が「表象」されてるよ、と言うことの本質的な馬鹿らしさを、もっとちゃんと考えるべきだと思う。 たぶん「高橋源一郎」自身も、特にあまり元気のない時なんかには、オレがやってることって「表象不可能性」なのかなあ、とか思ったりすることもあるのかもしれない。ていうかもちろんそれって別に全然ハズレじゃないし(そして「ハズレじゃない」といつでも言えてしまうのが「表象不可能性」の狡いところだ)。だが、ここで言う「書き得ないこと」というのは、もっとずっと単純で具体的で現実的なことであり、それゆえにずっともっと複雑で抽象的で観念的なことだ。 どこかに「書きたいこと」や「書かれるべきこと」(「書くべきこと」ではない)があって、それは確かにあるのだが、しかし「書くこと」によって「書かれたこと」となる筈の「そのこと」を、どうしても「高橋源一郎」は、どこまでいっても/そもそものはじめから「書き得ないこと」と考えてしまう。それはつまり、体験や記憶や情動といったようなものと、言葉や文法との偏差が、絶対的に超え難いものとしてその都度立ちはだかるということなのだが、しかしもう一度言うが、それはしかし、絶対的に超え難いとその都度思えてしまうとはいえ、たとえば「書くということ」そのものの根底に鎮座する実のところ結構ポジティヴな否定性というようなこととはぜんぜん違う。 そうではなく、「高橋源一郎」にとって、その「偏差」とは、必ずや、いってみれば「技術的」「方法的」にクリア出来る筈のものなのである。そのことが彼にはわかっている。「書きたいこと」や「書かれるべきこと」は、いつかは「書かれたこと」になってしかるべきなのだ。しかし、にもかかわらず、「高橋源一郎」には、未だに「そのこと」を果たすことが出来ていない。出来てない、まだ出来ない、ずっと出来ていない、と彼は思っている。なぜ出来ないのだろう?。どこかがまちがっているのだろうか?。しかしそれでもいつかは必ず…とも「高橋源一郎」は思っている。なぜなら、それは、よくよく考えてみれば、どう考えてみても、ほんとうは「書き得ないこと」でもなんでもないからだ。 だから、いわゆる「書くこと」が何もない、というのならば、実は全然ましなのだ。だって「書くことが何もないということ」についてなら、まだいくらでも書けるのだから。「問題」は、ここに(そこに?)「書くこと」は現に頑として在るのに、それがいつの間にか常に既に「書き得ないこと」にすり変わってしまう、そうとしか思えなくなってくる、ということにこそある。そしてまた、それはあくまでも「技術」と「方法」の「問題」としてあり、だからこそ、いつまでたっても/どこまでいっても、「書き得ないこと」を「書くこと」を諦めることが出来ない、ということにある。 「……ぼくが文学を好きなのは、実は正確ではないから、なにかを表現しようとして結局表現することができないから、つまり『誤り得る』からのような気がします。文学に留まろうと、政治に進もうと、いやぼくたちが言葉を持つ限り、言葉を用いる限り、『誤る』ことが必然なら、問題はどのように『誤る』かだけではないでしょうか」 「文学の向こう側2」『文学なんかこわくない』 と「高橋源一郎」は語ってみせたことがあるが、がしかし、今ダラダラと書きつつあることは、ここでの「誤る」というのとは、微妙に別の話、というか、もっと先の(見方によっては前の)話である。「どのように『誤る』か」は、実はさほどの「問題」ではない。「どのように」を「問題」にし得るのなら、それは結局のところ操作可能な誤操作でしかなく、「誤る」ことが「必然」だというのなら、それは(しつこいですが)「表象可能」な「表象不可能性」へと回収されるしかない。明らかに(少なくともこの時点では)「高橋源一郎」自身が、こんな風に考えていたわけだが、事態はいわばある意味、もっと浅くて素朴なのだと思う。つまり、ほんとうの「問題」は、「誤る」ということではなく、「うまくいかない」ということなのだ。 「保坂和志」との対談の中で、「高橋源一郎」はこう語っている。 ……ぼくの小説の場合、ほとんど失敗作なんですね(笑)。最近思うに。うまくいってるかなと思える部分が多い作品もあるにはあるんだけど、失敗しているというか、うまくいってない作品が多い。でも、そのうまくいってないということをうまく説明するのは非常に難しいんですよ。 「〈小説〉とは何か」『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』 ちなみにこの対談で「高橋源一郎」は「保坂さんの作品は最初から失敗しない構造になっている」とも述べていて、これは「保坂和志」の「小説」に対する最も的確かつ辛辣な「批評」だろう。この「うまくいってないということ」は、確かに「技術的」で「方法的」なレヴェルの判断ではあるのだが、しかしならばたとえば「保坂和志」の方は、それと同じ意味で「うまくいってる」のかといえば、それはまったく違うと「高橋源一郎」は言うに違いない。 「高橋源一郎」は、誰かに「書くこと」を適当に与えられさえすれば、自分は何だって書ける、というような意味のことをしばしば語っている。彼は自分の「技術」と「方法」の研鑽と達成に一定以上の評価を置いているだろうし、優れた「読者」であり「批評家」でもある彼としては、「高橋源一郎」の「技術」と「方法」が、同時代の作家に比して相対的にずっとマシであることは熟知していることだろう。 だが、それでも、いつまでたっても/どこまでいっても、「高橋源一郎」にとって、「そのこと」は「書き得ないこと」として立ち現れてくるし、その結果、そこには「うまくいってないということ」が残されることになる。そして、なぜそうなってしまうのかと言えば、「高橋源一郎」にとって、実は「そのこと」は「書きたくないこと」でもあるのだからだ。 「書きたくないことを書くにはどうしたらいいのか?」。すなわち「書きたくないこと」が、そのまま同時に「書きたいこと」でもあるのだとしたら、そこで生じる「書くこと」への抵抗/摩擦には尋常ならざるものがあることだろう。それは、放っておいたら、あっけなく「書けないこと」に安住し、引きこもって、そこには(ここには?)ないのと同じになってしまう。 「谷川俊太郎」「平田俊子」との鼎談の中で、「高橋源一郎」はこう言っている。 ……これはあまり考えなかったことですけれども、ぼくの場合、いやぼくだけじゃないと思うんですが、小説を書く場合は、なにを書くかをきめるとやることの八割方まできまってしまうんです。そこまでが仕事で、そこから先は物理的には大変なんですけれどもね。よくいいますが、「なにを書く」かと「どう書く」ということで分けると、「なにを書くか」がほとんどですね。小説の場合。 『日本語を生きる』 ところが「問題」は、この「なにを書くか」が「どう書くか」を延々と邪魔し続ける、ということにある。それを「ポストモダン」と呼ぶかどうかはともかくも、いわば「どう」が「なに」に勝る時代の寵児のごとく遇されてきた感もある「高橋源一郎」は、しかし実のところは「なに」が「どう」を拘束する「小説」の保守性(!)にことのほか忠実なのである。そして「なに」に代入される「そのこと」が、ほんとうは「書きたくないこと」であり、また「書かれるべきこと」が「書くべきでないこと」でもあるのだとしたら、それでもなお「書くこと」は、不可避的に「どう」に過剰な負荷をかけ、撹拌し、場合によっては破壊しもするだろう。 あるいはまたそれは、いつまでたっても書き始められない、とか、いつまでたっても書き終えられない、とか、限りなくテキトーとしか読めない、などといった、ほとんど怠惰や自堕落や責任放棄と見紛うような様相を呈することにもなる。 とまあ、ざっとこんなようなことを、当の「高橋源一郎」自身が、もっと端的に述べている。 しかし、ほんとうのところ、どの作家も、考えることは一つしかないはずだ、とわたしは思っている。 その一。ほんとうのことをいいたい。 その二。でも、ほんとうのことはいわない。 以上。 それだけ? そう。それだけである。 『私生活』 雑誌連載時から話題を呼んだ身辺雑記エッセイの単行本化に際して付されたこの序文の中で、「高橋源一郎」は、他にも「作家というものは、ほんとうのことをいいたい人の中で、なおかつ、ほんとうのことはいえない、と思う人たちなのだ。とわたしはいいたいのである」とか、「書かれていない事実。それは、まず書きたくないからである。あるいは、書けないからである。みなさんも、そんなことはないだろうか?」とか、「正直にいおう。書きたいけれど、書けない、のである。さらにいうなら、書けないけれど、書きたい、とも思う」とか、しつこいほどに何度も書いている(もっともこれ自体が一種のミスディレクションだとも考えられるが)。 「書けないこと」は、「高橋源一郎」にとって、今なお増え続けている。あるいは多重化している。しかし「書き得ないこと」であり「書きたくないこと」でもある「書けないこと」を「書くこと」の、ひとつのはじまりは、おそらくは次のようなところにあるだろう(もちろんこれだけではないし、実はこの作品だって「うまくいってない」し、そこが美しいのだが)。 この作品には、ほんとうのところ、むき出しの憎しみや怒りが詰まっている。おそらく、実はぼくの中にも。だから、この作品は、ぼく自身にいちばん似ている。なのに、これ以降、ぼくはずっと、こんな作品を書けないでいる。 『ジョン・レノン対火星人』講談社文芸文庫版「著者から読者へ」 「質問状は受け取りますが、質問には答えません」。「渡部直己」によるインタビューに際して、「高橋源一郎」はあらかじめ用意された質問リストに対して「黙秘権」を行使すると伝えてきたという(『現代文学の読み方・書かれ方』)。しかし彼はインタビューには応じており、質問にも真摯に答えている。このパラドキシカルな態度の、いわば対偶を取ると、「高橋源一郎」の「小説」になる。
by ex-po
| 2011-11-20 12:44
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