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「ワラッテイイトモ、なのに、ナイタ!」 ある雑誌から「ワラッテイイトモ、」に関するコメントを求められて、しばし考え込んでから僕が書いたのは、こんな一文だった。 別にシャレてみせたわけではなくて、これは思いきり本気だった。僕はK.K.氏本人から送られてきた未修正ビデオを見終わった時、マジでほとんど涙を流さんばかりだったのだ。 すでにこの異色のビデオ作品については、いささか過剰なほどに多くの事が語られている。本誌のような雑誌に見合っているのかどうかは分からないが、僕が以下の文章で書いてみようと思っていることは、「ワラッテイイトモ、」は、「アート」というよりは、むしろやはり「映画」なのであり、もしかしたらそれ以上に一種の「小説」でもあるのではないか、ということだ。そしてそのことは、僕の「ナイタ!」とも深く関わっている。 この作品を驚嘆すべき怪作として評価する巷の言説のポイントは二つある。ひとつは、他ならぬ「笑っていいとも」のエアチェック素材の気の遠くなるような膨大さ。何しろそれは放送第一回から録画されており、いわば「タモリ」というポップ・イコンをめぐる巨大なアーカイヴと化している。そして第二に、それらの膨大な素材を処理する編集のセンス&テクニックの秀抜さと執拗さと異様さ。時間軸を完全に無視して、形態論的あるいは意味論的に荒唐無稽な分裂結合を繰り返す「笑っていいとも」というソース・マテリアルの変容の有様は、僕の専門分野で喩えていうならば、クリック&カッツ以後で、なおかつすこぶるグリッチィな魅力に満ちている。 完成に至るまでに、どれほどの労力と時間が費やされたのかは想像に難くないが、しかし敢て言い切ってしまうなら、そこにこの作品の本質はない。「ワラッテイイトモ、」の核心は、最後に居心地悪そうに付された「、」の方にあるのであって、「ワラッテイイトモ=笑っていいとも」のサブカル/カルスタ/メディア論的捉え直しにも、ひらがなカタカナ変換のテクニカル・テクノロジカルな異化効果にも、実のところありはしないからだ。この「、」は、たとえば「モーニング娘。」の「。」のような、複雑で曖昧な何かを隠しているのだと僕には思える。断言とも疑問とも違う、躊躇と迷いを含んだ何かを。 誰もが知るお昼の長寿テレビ番組は、いわばひたすら正確に反復するループなのであって、そこに登場するアルカイックなコメディアンの姿は、そこに何重にも焼き付けられた残像のようなものでしかない。だからおそらく、この作品を語るにあたって、「笑っていいとも」と「タモリ」にフォーカスしているだけで、もう作者の仕掛けた罠に陥っているのだ。なぜ、K.K.はこんな途方もない芸当をやってのけたのか? なぜ、ここまでしなければならなかったのか? 『マトリックス』のスミス並みに増殖するタモリたちが、必死で覆い隠そうとしているものは、一体何なのか? それこそが問われなければならない。K.K.自身がビデオの中で語っている。「ここに記録された無意味な映像が、私の囮でありアリバイになる。私の映像には、動くモノが映ってさえいればいい」 「笑っていいともメガミックス」として、この作品を見ることから一旦逃れて、とりあえずタモさんのことも忘れて、もっと単純素朴に、ストーリーと登場人物を持った一本の「映画」としてそれを見てみるならば(作中何度もいま自分が作りつつあるのは「映画」なのだとK.K.は語っているし、タモリも「映画ですコレ」としつこく繰り返す)、そこにあるのは言うまでもなく、作者K.K.本人を主人公とする、ひとりの「引きこもり」の青年の「物語」だ。つまり、彼がいかにして西八王子の「部屋」(実際には具体的な部屋というよりも、彼が自閉する「空間」)を出ていこうとするか、という「冒険」の物語……しかし、この「映画=物語」は、最初から破綻している。ほぼ冒頭に位置するナレーションはこう告白する。「自分でも何がやりたいのかわからない」 「何がやりたいのかわからない」と自ら述べる「アート」が、かつてあっただろうか。あったかもしれないが、それはもっぱら戦略的な逆説や詭弁としでであって、ここでの告白を、そうしたギミックと同様に捉えようとすると、取り返しのつかない過ちを犯すことになる。確かに「ワラッテイイトモ、」を、メタ・レヴェルの錯綜をプレイフルかつトラジコミカルに表現した、自己言及性のファンハウスと理解することは可能だ。だが、そうした(お望みならばポストモダン的と呼んでもいい)からくりを、ある意味では無効にするような、やみくもで丸裸の強度を帯びた「何がやりたいのかわからない」感じが、ここには明らかに存在している。しかも「彼」がやりたいことは、実ははっきりしている。「彼」は出ていきたいのだ。 「内面を持たない者だけが、こっちに来れる」「内面を持たない者だけが、向こう側に行ける」……テレビ受像機の中から、強引に継ぎ接ぎされた、こんな意味ありげな台詞が聴こえてくる。ここで問われるべきは、だがしかし「こっち」とはどこか? 「向こう」とはどこか? そして「内面」とは何のことなのか? ということだ。そして、このことを考えてみるために、僕は差し当たり「ワラッテイイトモ、」とはまったく関係のない筈の、舞城王太郎という名前の小説家を召還したいと思う。 舞城王太郎という小説家については、K.K.の「ワラッテイイトモ、」をはるかに超える量の言葉がすでにあちこちで消費されているといっていい。いまや「ポスト(J)文学」の牙城と呼んで差し支えあるまい「講談社ノベルス」からデビューした(だが何故か福田和也のオビ文付きだった)この異能の作家は、ミステリ、純文学、ライト・ノヴェルのありえない三叉路にただひとり屹立する存在として、圧倒的な注目を集め続けている。『新潮』や『群像』や『ファウスト』や『en-taxi』に次々と長中短編を発表し、あっさりと三島賞(『阿修羅ガール』)を獲り、かと思えば清涼院流水の「JDCトリビュート」に途方もなく長くて面倒な『九十九十九』で参加し、最近はイラストや翻訳にまで手を染めながら、本人自身は覆面作家のまま決して表舞台には出てこようとしないことが、更にそのリアルタイム神話化を促進させているように思われる。 舞城に関する言説はかなり読んでみたのだが、「世界が、もし、「舞城王太郎」な村だったら。」他の幾つかの文章で舞城をかなり痛烈に批判している大塚英志の方が、逆説的にではあるがよっぽど「舞城その可能性の中心」を分かっていると思えてしまうのは流石にマズいのではないか。ここでは到底「舞城論」は展開できるわけないので詳しくは他の機会にするけれど、まずはサブカルチャーとゲージュツの差異があることになっててヨカッタネ! エンタとブンガクの区別がまだあるみたいでヨカッタネ! というような旧態依然とした地点からは脱して貰わないと話が先に進まない。 そういえば大塚氏は舞城の「サブカルチャーの言語」の導入ぶりが甘いし浅はかだというようなことを言っているのだが、舞城作品のこれみよがしな固有名詞の使用や見え見えの仕掛けを、たとえば「データベース」からの「サンプリング」(の成功や失敗)として理解しようとすればするほど思いっきり間違えることになるだろう。物事をつい「戦略」という観点から読み解いてしまうのは「八〇年代」の悪いクセだ。 ずっと昔、大江健三郎という人が『万延元年のフットボール』という小説の中で「ほんとうのことを言おうか」と問うてみせた。結局のところ、「文学」とは「誰か」にとっての「ほんとうのこと」をめぐる「虚構(ほんとうじゃないこと)」のことなのだと僕は思う。異論はあるでしょうが、最近ますますそう思う。 舞城王太郎が貴重なのは、たとえば短編「スクールアタック・シンドローム」で、ダメ親父(だが年齢的には若造)が学校襲撃を計画する狂った小説を書いてしまった虐められっ子の中学生の息子に言う台詞として、「なんでお前、この小説、自分が学校を襲うって話じゃなくて、誰かが自分のいる学校を襲ってくるから自分が撃退するって話にしなかったんだろうねえ」なんてことを書けたり、あるいは中編「好き好き大好き超愛してる。」を「愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい」なんて言葉で始められるからだ。こんなある意味(というか大概の意味で)唖然とさせられるような、歯の浮くような、マジで? と問い返したくなるような、あまりに直截で素直過ぎで愚直でさえある言葉を、だがしかし未熟さや幼稚さの臆面もない発露とも、あるいは小賢しい「戦略」の類いとも違った、ある困難な迂回の旅路の果てにようやっと辿り着ける、だが言われてみれば誰もが最初から分かっていた筈の「ほんとうのこと」として、ふたたび見い出すこと……。 最初から分かっていたことを最初に言っておしまいにするのと、しなくてもよい回り道をわざわざ経巡ってから最後にわざわざ言うのとでは、やはり違うのだ。「小説」というものは(例外もあるけど普通は)最初の一行から最後の一行まで順番に読まれていくものであり、末尾が明確なオチになっていなくても、読了した時点で、その「小説」のサイクルは一旦閉じて、何らかの感想なり印象を読む者は抱くわけで、何が言いたいのかあまりにはっきりしているのなら本来それだけ書けばいいようにも思えるが、それではなぜか伝わらないことが多いのは不思議だが自明の事実だ。だから色々な道具立てを揃えて、回路を接続し、構造を立ち上げ、言葉を駆使して、言わずもがなのことを何度でも言う努力をしなくてはならない。 「ワラッテイイトモ、」と舞城王太郎に共通するのは、「ほんとうのこと」が潜む、一種パラドキシカルな、ほとんどヴァーチャルでさえある空間、別の言い方でいうなら「内面」(!)を、ひとたび勇気を持って切り離した後で、最後にふたたび引き受けようとする、その循環が孕む錯綜する運動性と混乱する多重性への否応無しのベクトルだ。どこかで長いロープを切ってきて、蝶結びやコマ結びにして、それからほどいてみる、というような。ロープ自体も大事だし、結び方も重要だけれど、肝心なのはやはり、ほどくこと、なのだ。 僕が「ワラッテイイトモ、なのに、ナイタ!」のは、K.K.が、引きこもっていた「部屋=内面」を出ていこうとして、しかしどうしたって出ていけなどしないこと、出ていくことと引きこもること、つまり「こっち」も「向こう」も実はおんなじなのだということに気付くことで、おそらくはやっと出ていくことが出来た、と思えたからだ。 複雑怪奇な話法や屈折した構造や膨大に蕩尽されるギミックを通してしか見えてくることのない切実な素直さがあるのであり、なぜそんなことになってしまったのかといえば、それはやはり僕らが「八〇年代」と「九〇年代」を経過してきてしまったからだと思うのだが、そのことを詳しく述べてみるには、あまりにも字数が足りない。ただひとつだけ言えることは、シンプルに見えるものほど実はややこしいものはなく、逆にややこしく見えるものほど根は単純素朴で、そしてこのややこしさとシンプルさは延々とグルグル廻っているんだろう、ということだ。そしてこれは「アート」(とか)もたぶん同じ。 (『美術手帖』2004年3月〜4月号、全文は『ソフトアンドハード』に収録)
by ex-po
| 2011-08-03 12:29
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