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加藤典洋『耳をふさいで、歌を聴く』を読んでふと思い出したので、昔「音楽誌が書かないJポップ批評」に書いた奥田民生小論をアップしてみます。こうしてみると、随分捉え方が違う、、 奥田民生のソロ・デビュー・アルバム『29』がリリースされたのは、1995年3月8日のことである。同じ年の10月1日には早くもセカンド・アルバム『30』が出ていて、本人の誕生日(1965年5月12日)を挟んだこの最初期の二枚は、当時の年齢をタイトルに冠した連作と呼べるものとなっている。 今回、この原稿を書くにあたって、あらためてこの二作のアルバムを聴いてみた。まず驚くのは、奥田民生というミュージシャンの、まったく揺るぐことのない一貫性、というか変化のなさ、である。もちろん声はずっと若いし、すでに(ほぼ)三十路とはいえジャケットに映った姿には少年の面影さえ残っているのだが、しかし楽曲的・音楽的には、最近の作品と比較してもまるで遜色がない。ソロ・デビューの時点で、奥田民生という存在は、完璧に完成していたのだ。 これを「だからスゴい!」とみるか、成長のないワンパターンと捉えるかによって、評価は大きく二極化してしまうものと思われるが、幾分まわりくどい言い方をするなら、出発点から現在に至るまで事によるとビートルズしかレフェランスを持っていないのではないかとさえ思えてくるほどの強靭な同一性と、それと裏腹になった隠すべくもない一種の不器用さこそが、奥田民生の最大の、ひょっとしたら唯一の武器なのであり、彼をこんにちの、そしておそらくは今後もはるか永きに渡ってトップ・アーティストの座に君臨させるであろうファクターも、間違いなくこの「変わらなさ=変われなさ」であるのだと、確信を持って断じることが出来る。 もちろん、ソロ・デビュー以前にユニコーンとしての決して短くはない活動歴が横たわっている、という言わずもがなの事実はある。がしかし、ユニコーンがメジャー・デビューした1987年から解散した1993年までに残した作品が証立てる変化にありようと、その総体が孕み持つ音楽的な振れ幅は、他のメンバーもいたからだという当然の認識を考慮したとしても、その後の奥田民生ソロとしての十数年よりもーー誤解を恐れずに言うならーーはるかに豊かなものなのだ。ある意味で奥田民生は、変わることを止めることによってソロ・アーティストになったのだ、とさえ言い得るのかもしれない。 ところで、『29』がリリースされてから十二日後の1995年3月20日に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。それに続く一連の陰惨な出来事は、「九〇年代」の半ばになっても尚、まだあちらこちらに明らかに残っていた「八〇年代的なるもの」へ痛烈なる死亡宣告をし、と同時に、視界の先にじわじわひたひたと忍び寄って来つつあった「世紀末」を一気に繰り上げてみせた。私見では「1995年」という年はこの国の戦後史に幾つかしか穿たれていない紛れもない結節点のひとつであり(それはオウム事件だけのせいではないが)、この年を境に「以前」と「以後」とに歴史を断絶させるほどのネガティヴなポテンシャルを有した年であった。 奥田民生の『29』と『30』の間には、このような歴史認識の入り込む余地さえ、そもそもまるきり存在していない。録音時期も演奏メンバーも異にしながら、多くの点で姉妹作と考えられるこの二枚のアルバムを隔てているごく短い時間の間に、何か決定的で不可逆的な出来事が起きてしまった、というような感覚は、そこには些かも刻印されてはいない。出発点にして既に完璧に完成されていた奥田民生の世界は微動だにしていない。極端に言えば、それは互いに交換可能であるばかりか、またその後のどのアルバムとだって置換可能なのだ。すなわちつまり、奥田民生にとっては、彼自身が、ではなく、彼を取り巻く、彼の外側の世界が、何一つ変わっていないかのように思えるのである。 もちろん、これは二枚のアルバムの制作過程の詳しいプロセスを踏まえて述べているわけではないし、奥田民生の無自覚ぶりや鈍感さを揶揄しているのでもない。意識的であるか否かはともかくも、このいわば不変性こそが普遍性へと直結しているのであり、それはほとんど畏怖するに足るというか、どこか空恐ろしいような感じさえしてくると、大変久しぶりに聴いた二枚のアルバムは、筆者に思わせたのだった。そして最後に全てをひっくり返すような一言を付け加えておけば、『29』の冒頭の曲「674」には、こんな歌詞が含まれていたのだった。 「ああいっそ/地球も/大予言どうりに」
by ex-po
| 2011-08-02 12:37
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