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それで、その前提事項のもう一つの部分なんですけども、『ルート1』はロードムーヴィーであるっていう言い方があります。これも普通に考えたら、何の文句もないというかですね。ロードムーヴィーっていうのは、あるところからあるところまで旅をするっていうことを、映画の軸にしているっていう作品、で、先ほど名前を挙げたヴィムウ゛ェンダースなんかはその最も代表的な作家の一人というふうにされているわけですけど、実際、カナダの国境からキーウエストまでの起点と終点というのがはっきり提示されていて、そこを旅をするという作品なので、これはもうロードムーヴィーといっていいわけなんですけども、一般にウ゛ェンダースに代表されるようなロードムーヴィー的なものというのはですね、そういう形で旅をするっていうよりも、むしろ旅をする過程のなかで、純粋な移動というか、純粋な持続的なもの、距離の踏破をどういうふうに映画というもののなかに定着させるのかっていうことが非常にこう執拗に問われていると思います。それは一つの形象としては、単に車が走っている部分を永遠とですね、あるいはその映画の作り方っていう部分でいうと、長回し的なものが、非常に何もおこらない、ただ車が走っているシーンっていうのが、ひたすら延々続いて何もおこらないという、何もおこらないけれども、時間だけが経っていく。そういう純粋な持続、純粋な移動的なものっていうのが、ロードムーヴィーっていうのはやっぱりこう、ロードムーヴィー的な本質というものを見せるためにやっぱりこうでてくるものなんですけど、この映画にはあんまりそういう感じっていうのがないんですね。もちろんその走ってる部分っていうのは出てくるんですけど、ウ゛ェンダース的な意味での純粋な移動の感覚、純粋な持続感っていうのはあまり意識が払われていない気がする。むしろ、ある場所からある場所へ移動しましたよっていうことを示すためにそういうようなシーンが挿入されているだけで、さほど場所を移動していくということに対して、強い関心が払われている感じはしないんですね。ロバート・クレイマーという人はウ゛ェンダースとは違って、移動とか、さすらいとかそういうようなことにあんまり興味がない人なんじゃないかなっていう気が僕にはします。で、むしろある移動の感覚、あるところからあるところへ移動する、あるいは、ずっと人はどこかへ移動し続けていくものだっていうロードムーヴィー的な一種のさすらいというか、旅というか、おわりなき旅というかですね、そういうようなことよりも、そういうことをしていたとしても、人間というものは、どうしたって、ある場所「そこ」っていうのにつなぎ止められているんだっていう、その「そこ」っていうのが移動していたとしても、その人が移動したのは「そこ」であって、「そこ」っていうものから永遠に逃れられはしないんだっていうことそちらのほうに非常に重心があるんじゃないかなというふうな気がします。この映画はさっき65時間っていいましたけど、実際にそれどれくらいの長さかわからないですが、やっぱり映画の作り方的に観るとですね、最後まで見てしまって反芻するとなおさらそう思えるわけなんですけど、だいたいロードムーヴィー的なものっていうのは純粋な映像っていう部分をなるべく明らかに、なるべくクリアーに見せようとするが故にですね、映画としてはやっぱり常にその時その時っていうか、その次に進むベクトルみたいなものを持っていて、どうなるのかわからない、つまり、どこかにたどり着くっていう感じじゃなくて、そのときそのとき常に先に移動していく、移動の過程であるっていうそういう作り方がされていると思うんですけど、この映画野場合っていうのは、むしろ、やっぱり旅が終わって、何十時間かフィルムが残って、一番最後にたどり着いたのがキーウエストだった。で、そのそういうものが全部終わったところからその旅というものによって残されたフィルムというものをかなり緻密に考えて、それで編集をしてですね、4時間15分という、ある起点と終点をもったものとして作り上げている感じがあるんですね。つまり、どこにたどり着くかっていうことではない形で、その先その先、次の土地次の土地へのベクトル感覚を優先させるというよりも、やっぱりたどり着いた場所、最終的にたどり着いたところから、遡行的にそれまでおこったことっていうのを考えてそれで編集しているっていう感じがする。それはつまり、過去にさかのぼってやってるっていう感じがするんですね。つまりおこってしまったことっていうのを、まず一度全部、65時間見たかどうかわからないですけど、65時間のフィルムの断片からいかにして時間をもう一度立ち上げるかっていうことをしていて、そういう意味ではドキュンメンタリー的ではないっていう感じが今非常に強くするんですね。で、このロードムーヴィー的なこととドキュメンタリー的なことっていうのはこの映画の非常によく語られる2つの要素だと思うんですけど、この2つに関連して、まぁロバート・クレイマーという人について僕はほとんど何も知らないっていいましたけど、知りたい方はですね、ネットで、まぁここにいる人はかなりの部分が知っていらっしゃると思うんですが、映画評論家の樋口泰人さんがBOIDというウェブサイトをやってまして、そのBOIDのウェブサイトのなかにロバート・クレイマーについて言及された以前特集上映やった時のトークの採録や、ロバート・クレイマー自身へのインタヴューの文章なんかがですね、すごくたくさんアップされてる。それを見るとですね、かなりいろんなことがわかるので、僕の話をよりもずっとためになることがいっぱいでてくるとおもうんですが、そのなかに、これは、僕も見ていない、『マント』という作品についての質問に答えた部分があるんですが、ちょっとそれを、今コピペしてきましたんで、ちょっと読ませていただきますと、これは『マント』という映画についてなんですが、この物語は本当は映画作りについてのものだ、えっと、中略しまして、そして、彼が悟るのは、映画作りと、生きることの間にほとんど境目がないということだ。これは普通、映画作りについて思われていることと正反対の考えだ。映画作りは仕事でありそれとは違う部分の生活がある。私は、この区別を打ち壊したかったのだ。生きること(living)と映画を撮ること(filming)の間に。っていう言葉があるんですね、で、この生きることlivingと、filmingっていうものが、本来普通は違うものと思われているんだけども、自分にとっては全然違わないんだっていうことは。まぁそういうことを言っている発言だと思うんですが、これは、非常に映画のヌーヴェルヴァーグ以降の映画っていっていいとおもうんですけど、信奉者の人たちには、非常に耳障りがいいといいますか、いやぁそれはその通りねっていうふうに思えるような発言だと思うんですけども、確かに今の『ルート1』でもですね。彼自身が旅をしたという事実ということはやはり確実に現実に残っているわけで、かれはその、(?)生きたっていうことと、その映画を撮ってっていうのが、かなりの部分こう重ね合わされているわけで、生きることと映画を撮ることというのが、本当にある種幸福な切望のされ方をしているというふうにいえると思うんですけど、ただ、ここで思うのは、じゃぁfilming、映画を撮ることが、そのまま生きることなんだっていう、非常に映画作家的な、映画的なレベルでの特権化と間違えてはいけないと思うんですね。よくやっぱり映画を撮る、映画は人生だっていう言い方がありますけども、あの、あるのかは知りませんが、映画は人生だ、映画を撮ることと生きることは同じだっていうふうにいうとですねと、映画を撮るっていうことが一つのこう、そっちの方に重点が置かれている言い方だと思うんですけど、むしろやっぱり逆でですね、これは当然のことなんですが、filmingもlivingの一部なんだっていうことだと思うんですね。で、そういう映画を撮っているのも、彼のロバート・クレイマーという人物の人生のなかの一部であって、人生の中の一部であるからこそ、それは分ちがたいものだっていうことであって、そういう言わずもがなの真実といいますか、言わずもがなのことっていうのを改めてこう言い直すみたいな部分っていうのはあったんじゃないかなと思います。それからもう一つ、じゃぁどうすればっていう部分での発言なんですが、もう一つのロバート・クレイマーの発言を引用するとですね、ボブディランの歌詞にハイウェイはギャンブラーのためのものだ、チャンスにかけるものとか、いうのがあった。後半は偶然から手に入れられるものはすべてを手に入れろだったかな、すべてがこの問題どう歩いていったらいいかを模索すること、簡単ではない状況の中で、生きるための別の道を探ることについて展開する。っていう台詞があるんですね。この偶然から手に入れられるものはすべて手に入れろっていうのも、ドキュメンタリー映画を撮る上でのですね、金言といってもいいような言葉だと思うんですが、これもまたちょっと映画というよりも音楽の話になってしまうんですけども、この映画は音楽を担当しているのはバールフィリップスというベーシストです、他何人か日頃のグループという形で演奏しているんですけども、クレイマー監督の作品かなりの部分バールフィリップスという人が音楽をやっていて、さっきのディーゼルもやってたりすんですけど、このバールフィリップスという人はですね、ある意味で非常にロバート・クレイマーと似ている部分がある人で、ベーシストでアメリカ人なんですけども1970年代にもうヨーロッパに渡ってしまって、最初イギリスにいるんですけども、途中からフランスに住みましてずっとフランスに住んでいるんですね。そういう意味ではロバート・クレイマーも80年以降フランスに住んでいますから、同じ国ということで、いろんな形で共同していくっていうふうになったのかなぁと思うんですけど、このバールフィリップスがですね、この映画では作曲をしていると思うんですが、即興演奏みたいなのもする人で。日本にも何度も来日している、もう本当におじいさんなんですが、彼はですねこれはちょっと別のウェブサイトさんですが、山形国際ドキュメンタリー映画祭がらみで、ロバート・クレイマーの映画の上映にあわせて来日をしたことがあるらしいんですね、でそのときに、インタヴューを受けたのかな、何か発言をしてまして、彼は、自分でもソロ演奏みたいなことをやって、それに関してした発言って言うのがネットに出ていたんですけど、それはですね「人間は知性に頼りすぎる本来大事なものは眼前のものを直接経験することであって、頭で定義することではない。」というふうにいってるんですね。これはさっきの偶然についてのクレイマーの発言と重ね合わせるとですね本当にその場その場で起きていることっていうものにどういう風にして対応していくかみたいな、音楽でいえば、即興演奏ということになるだろうし、映画でいえばドキュメンタリーっていうものに関しての考え方とやっぱりどっかつながる部分がある発言なんですけども、それとですね、こういう風にいっちゃうと、あぁなるほど、やっぱり知性とかは邪魔で目の前でおこっていることっていうのをダイレクトに体験するっていうのがいいことなのねみたいな。頭を使っちゃいけないなっていう事をいってるだけのように思えちゃうんですけど、やっぱりここで、注意深くしなくてはいけないなと思うのはですね、その場で起きている事、その場で何かが起きている。なにがしかの事がいまここで起きているわけなんですけど、その場に居合わせる、すなわち体験するっていうことと、それをカメラなり例えば録音なりで記録することはやっぱり全然違うことなんですね。つまり、たとえ、さっきのソキュメンタリーの話と同じなんですけど、たとえその場で何かアクシデンタルな二度と起きない一回性の出来事が起きているとしても、われわれがただ居合わせているだけだとしたら、それはただ居合わせているだけです。つまりわれわれの記憶にしか残らない。その記憶にしか残らないものを記録っていうかたちで残すには例えばムーヴィーカメラっていうのはどうしても必要なんですね、ただそこでムーヴィーカメラっていうのを使って、その一回性の出来事を記録したとたんにそれは一回性としてのものっていう部分での二度と起きない、今ここ性っていう部分をやっぱりある意味剥奪されるわけです。剥奪することと引き換えにしか、記録することはできないですね。つまり、さっきのバールフィリップスの発言でいうと、知性に頼りすぎるのはよくないのかもしれないけども、知的って読んでいいのかわからないですが、やっぱりそこには常にある種の意識的な選択と、判断と構成っていうのが存在していて、映画なら映画っていうかたちでその現実を写し取ってそれをそののち何度も見れるようにして残していくことはできないわけです。それはやっぱり大きな違いだと思います。 で、そういう話をふまえてですね、最後もうひとつだけ、『ルート1』はこういう映画であるっていう部分なんですけど。『ルート1』はアメリカ合衆国を描いた、もっといえば、アメリカを批判した映画であるっていうふうな言い方があります。これも大方あたっています。これはみなさんがむしろそこから考えてほしいなと思うことなんですけど、この映画は89年に作られていまして、この89年に作られているということは世界史的にいうと結構重要でですね、この年はいわゆる冷戦が終結した時期なんですね。ブッシュ大統領のお父さんの時期で、もうちょうどこの1、2年くらい前からいろんな形で冷戦のみならず、ソ連邦の崩壊ですとか、ベルリンの壁が崩れるとかですね、あるいは、中国の天安門事件がおきるだとか、そういうような色んな激動の出来事っていうのがだんだん起きていく渦中にあってですね。ちょうどこの89年の暮れには有名はマルタ首脳会議っていうのがあっていわゆる冷戦が終わったみたいなことになるわけですね、ただそのあと2年後には湾岸戦争とかが起きて、現在に至るまでのアメリカと世界っていうもののプロセス(?)が始まるわけですけど、とりあえず89年っていうのはそういう年であったわけです。で、ところが、まぁ時期的に撮った時期っていうのは多少ずれているとは思うんですけれども、なので、そういう現実的にリアルタイムに起きていることっていうのにそのままダイレクトに反応することはできなかったかもしれないんですが、この映画でやっぱりかなり集中的に描かれているのは例えばインディアンの問題であるとか、あるいは戦争の問題であるとか、あるいはそれ以外のアメリカ合衆国の中におけるマイノリティーの人たち存在っていうだったりするんですが、あんまり89年現在のアメリカっていうもののリアルな問題っていうものに寄り添って語っているっていう感じはしないんですね、むしろそこを旅しながらクレイマーっていう監督が見ていたのは89年の、今ここっていうよりもその土地土地の、あるいはそこで出会う人々の抱え持っている歴史とかですね、抱え持っている過去っていうものの方に視線が強く向いているような気がします。もちろん映画っていうのは、その時その時の現在を記録するものですから、現在形ではあるんだけれども、その現在に常に過去っていうものが想定されている。過去っていうものが封印されているっていうことに非常に強いこだわりがある気がして、89年に作られた作品なんだけれども、むしろもっと長いスパンのアメリカ合衆国というものの、それ以前の歴史というものが随所に映し出されているっていう感じがするんですね。そういう意味でも、ドキュメンタリーというよりもある種のもっと大きな、一種の全体映画というか、歴史というものを扱っている作品という感じがします。で、これは本当に89という数字が全くの偶然であるのかもしれないし、10年経ったからそろそろねっていうようなことと、こういうようなことが一致したということに過ぎないかもしれないんですけども、この『ルート1』というアメリカを扱った映画が89年に作られていたということはある種示唆的なような気がします。というものの映画の非常にアクチュアルな問題をいっぱい扱っているわけですが、最後まで観てしまうと、もちろんそういう非常に生々しい問題、現在にも、まだ解決されざるいろんな問題に対峙しているんではあるんですが、最後まで観てしまうと、もちろんそういう部分はあるんですけど、この映画全体の印象っていうのは、やっぱりもうちょっとですね、そういう社会的政治的な問題を抱えたドキュメンタリーというものとは違う感じがどうしてもするんですね。むしろ、一種のファンタジーというかですね、それはもう歴史という部分でもそうなんですね、過去を透視しているっていう部分でもそうなんですが、ファンタジーとか、あるいは一種の寓話的な印象っていうのが非常に色濃く出ているような気がします。で、この印象を作り上げているのは、この映画のラストシーンだと思うんですね。ラストのところで、気球かなんかが出てきて、気球を外に放って緑とか出てきてですね。あの、この映画のずいぶん途中で何度も、いわゆる人がいない風景ショットっていうのが挿入される部分があるわけですけども、その風景ショットが非常にリリカルに作られてて、この映画の最後で、ああいう一種暢気なムードっていうのをふっと出して、終わる。そのある種の軽みみたいなものっていうのは、抱えているアクチュアルな問題意識っていうものと決して矛盾しない形でロバート・クレイマーという人のひとつのやっぱり作家的な魅力だったんじゃないかなというふうに思います。 この映画はやっぱり、何回も見れる映画で、何回観ても新しい魅力をえられるんですけども、なかなか何回も観れないという、そういう、時間も長いし観る機会もないというそういう映画であるわけなんですけど、だからこそ、DVDなり何なりで観れるようになるといいなと思ってるわけですが、話の最後に。付け足しみたいなものなんですが、ご存知の方もいるかと思いますが、ロバート・クレイマーという監督はですね、もう99年になくなってしまったわけなんですが、これはぼくもですね、偶然観たらそうだったっていう話なんですけど、その映画のことを知らないので、フランスの監督で、セドリック・カーンという監督がいます。『ロベルトスッコ』っていう作品とかが公開されたりとかしてるんですけど、そのセドリック・カーンの映画で、『倦怠』という映画があります。これは98年に作られた映画で、『倦怠』っていうとあぁって思う人がいるかもしれないんですが、これはゴダールに『軽蔑』っていう映画がありますけれども、それと同じ原作アルベルト・モラヴィアの『倦怠』、夫婦の倦怠を描いた作品で、ゴダールもセドリック・カーンもモラヴィアの原作にほとんど・・・(?)っていうそういうやつなんですが、この『倦怠』っていうセドリック・カーンの映画は非常に興味深い。僕も観てですね、あぁ、全然ゴダールの『倦怠』と違うじゃんって思いながらも面白かった映画なんですけど、この映画にですね、ロバート・クレイマーが出ています。ロバートクレイマーがこの映画のストーリーのきっかけになるような部分というか、非常に重要な役割の死んでしまう画家の役で出ているんですね。映画を見た後、そこで出てた人がロバート・クレイマー監督その人だったっていう事を知ってですね、僕非常にある種の感銘をうけたんですが、この映画を見てですね、ロバート・クレイマーという監督に興味を持たれて、どんな人だったのかなぁって思った方で、まぁなかなかそれ以外の作品を見る機会はないと思いますので、そのセドリック・カーン監督の『倦怠』をご覧になってない方は観ていただくと、少なくともそこにロバート・クレイマーという人が、しかも死の前年の彼の姿が刻印されてますので、ご覧になっていただけたらと思います。映画自体もこの映画とは、全く違うタイプの映画ですが、非常に興味深い映画だと思います。 上映長い間終わった後、残っていただきましてありがとうございました。
by ex-po
| 2011-05-05 13:16
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