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まもなく一年四ヶ月ぶりの新刊『即興の解体/懐胎ーー演奏と演劇のアポリア』が、青土社より刊行されます。 雑誌「ユリイカ」に3年間連載されたもので、前半が「即興の解体」と題した音楽論、後半が「即興の懐胎」と題した演劇論になっているという、ちょっと奇妙な本です。 以下は青土社HPでの紹介文です。 究極の即興原論 即興=インプロヴィゼーションを根源から定義し直し、 最先端のパフォーミング・アーツの核心を明らかにする、究極の即興原論。 本書でとりあげられる主なアーティスト デレク・ベイリー、ジョン・ケージ、ジョン・ゾーン、大友良英、杉本拓、岡田利規/チェルフィッチュ、平田オリザ/青年団、東京デスロック、ミクニヤナイハラプロジェクト・・・・・・ ようこそ、即興の迷宮へ! 即興を定義しようとすれば途端に言葉の迷宮に入り込むことになる。 でも、その迷宮に入ることなしにオレのことを書くことなんて不可能だ。——大友良英 演劇が成立する原理をこのように丁寧にひとつひとつ確かめていけば、 それはやがて演劇について考えることに留まることををやめて、世界について考えることに届く。——岡田利規 冒頭部分をアップしておきます。 こんな風に始まる本です。 はじめに 本論の究極的な目標は、次の問いに答えること、少なくとも答えに漸近するべく試みることである。 驚くべきことは、いかにして起こるのか? 「驚くべきこと」は、「予期しないこと」とも言い換えられる。 すぐにわかるように、この問いに何らかの答えを与えようと試みるためには、それと同時に、あるいはこれに先だって、次の問いをも問わねばならない。 驚くべきこと(=予期しないこと)とは、一体何なのか? 「驚くべきこと(=予期しないこと)」は、「意想外なこと」とも言い換えられる。 そして、右のふたつの問いは、当然のことながら、次のような、おそらく根本的と呼んでよいだろう問いを内包している。 驚くべきこと(=予期しないこと(=意想外なこと))は、そもそも可能なのか? おおよそ以上のような、複数の、もしくは一つの問いを巡って、本論は展開することになる。 考えを進めてゆく上での足掛かりとして採用されるのは、題名にあるように、「即興」という言葉=概念である。しかし、見てのとおり、ここでの「即興」は、遂には「解体」される(べき)ものとして、予め設定されている。 本論の執筆が漸くこうして開始されるに至った契機は、次回以降で詳しく述べられることになるが、筆者が「即興演奏」と呼ばれている音楽の一分野に関する考察を進めていく過程で直面した、今から顧みれば殆ど不可避であったとも思える、本質的な困難であった。フリー・インプロヴァイズド・ミュージック、フリー・インプロヴィゼーション、あるいは単にインプロなどと称されている、かなり特殊かつマイナーと言ってよかろう音楽ジャンルの歴史と現状に対して、自分なりの原理的かつアクチュアルな、ある纏まった形での批評=批判を遂行することは、筆者にとって過去数年間に渡る課題であったのだが、そのためのリサーチと思弁の作業プロセスの中で、幾つかのきっかけによって、先の本質的な困難、アポリアへと突き当たり、否応なしに、よりラジカルな問題群に臨むことを余儀なくされたのである。 その「問題(群)」とは、まさしく先に掲げた複数の、もしくは一つの問いに集約されているが、問うべき問いが採り出されてくるのとパラレルに、思考の対象は狭義の「インプロ」というジャンルをやがて大きく逸脱して、いつしか「音楽」をも超えた、相当に広範な領域へと漂い出してゆくことになったのである。そして、いまここで/いまここから、いまここへと至るそれなりに複雑に絡まりあった考察の履歴と、願わくばいまここよりも先に在る、より明晰な認識の境位への試行を、どうにか言語化してゆこうとしている私は、このような成り行きは、しかし、むしろ必然であったのだと考えている。 具体的には、ここでの試みは、「音楽」における「インプロ」に相当する(と思える/思えた)行為の次元、現象の審級を、他の幾つかの、幾つもの表現手段=芸術分野の内に次々と見出していく、一種のフィールドワークの様相を呈してゆくことになるだろう。したがって、本論はスタイルとしては所謂クロスジャンルの、領域横断的なテクストになる。だが、けっして「横断」という表立った振る舞い自体が目的であるのではないということは先に明言しておきたいと思う。筆者の好みの言葉遣いを用いるなら、それは「横断」ではなく「貫通」である。「即興」という語が冠され(得)るさまざまな行ないを貫通する何かがあり、さまざまな行ないを貫通する「即興」と呼ばれ(得)る何かがあるのである。だがその「何か」は、必ずしも「即興」と同値とは限らない。ことによると「即興」とは、考えを駆動する働きを負っていながらも、しかし最終的には、理路の回転の只中に雲散霧消する宿命を帯びた、実のところ至ってノンセンスな言葉=概念なのかもしれない。 「解体」という言葉の意味のひとつは、このようなことである。「即興」を「解体」するというよりも、「即興」が自ずから「解体」してゆく様子を、つぶさにトレースしてみたいと思うのだ。 これから私が問うてみたい「驚くべきこと(=予期しないこと(=意想外なこと))」とは、「起こりえないこと」や「起こりそうになかったこと」とは違う。何事かが決して起こり得る筈がないと信じられることも当然予期の一種であるから、それが現実に起こった時の感覚は、たとえ以前の予想と真逆ではあっても、予想外という事とは異なっている。真の驚きは、あらゆる予期の、すべての予想の外部からやってくるものだ。そのような「外部」は、けれども、予め「外部」として想定できているものでさえない。そうであれば,そもそもそれは「外」ではないだろう。 つまり「起きる筈がないこと」が起きる、ということではなくて、それが実際に起きてしまうまでは、可能性としてさえ存在していなかった、まったくの「無」でしかなかったことが、突然に、ただ、起きるのである。そのようなことが、果たして本当にあるのだろうか? いや、これはまったく特殊なことなどではない。私たちは、日々、そのような出来事をごく自然に体験しているのではないだろうか……だが、いささか先回りをし過ぎたようだ。まずはゆっくりと始めてゆこう。 ……この続きは、ぜひ本を手に取ってみてください。 金曜くらいには書店に並び始めると思います。 アマゾンでの予約も始まっています。 どうぞよろしくお願い致します。
by ex-po
| 2011-04-20 15:43
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