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(つづき) いささか唐突かもしれないが、こんなことをつらつら考えていて、ふと手に取った若手建築家の講義録に、とても共感することが書かれてあった。たてものを発想するに当たって、どんなところからはじめるか。彼はこんな風にはじめる。 白い紙に単純な線を引いて、あそびのようなことをやってみたいと思います。 たとえば、紙の隅の方に曲線が引かれています。白い紙が、一本の線で二つの領域に分割されています。広い方の領域に椅子を持った人を書き足します。すると、それまであった白い紙としての面は見えなくなります。代わりに広々とした床面があらわれて、小さい方の領域は、たぶん丸いラグが敷いてあるのでしょうか。絵のいいところは、ちょっとだけ線を書き足すと、見えていなかった空間の広がりが見えてきたり、見えていたはずの空間のかたちが変化したりすることです。たとえば椅子に影を書き足すだけで、床が垂直に立ち上がって壁になります。消しゴムで線を少し消しても、別のことが起こります。椅子を一部消しただけで、ラグがテーブルになります。椅子を書き込む位置を変えただけで、テーブルは水盤になり、床は砂丘のように滑らかに起伏します。重力を消すこともできます。そうやっていろいろ遊んだ後で、書き足した線を全部消します。紙に残った元の線のような建築を作りたいと、僕はよく思います。 一葉の「白い紙」から、ひとつの世界が生まれてくるさまが、いきいきと記述されている。何もないところに何かを、誰かを「書き足す」こと。そうしてゆくことで俄に立ち上がってくる空間=場所。ごくごく簡単な「書き足し」の積み重ねが、少しずつ複雑な関係性を孕み、やがて緩やかなトータリティを形造ってゆく。あと二つ、断片を引いてみよう。 白い背景に男の子が立っています。男の子がいると、紙に椅子を書いたのと同じように、ある平面の広がりが見えてきます。(中略)離れたところに女の子を書き足すと、空間にまとまりのようなものが見えてきます。それまでなかった「ふたりのあいだ」というようなまとまりです。ここで「男の子は手に野球ボールを持っています」という情報が与えられたら、もっと決定的なことが起こります。「ふたりのあいだは横切れない」ということになってしまいますから。男の子が本当はボールを持っていなくても、女の子に投げる真似をしただけで、この見えない壁は出現します。男の子が体の力を抜くと、壁も消えてなくなります。 家全体のかたちは全然思い浮かべずに、とりあえず一枚絵を書いてみました。地面にブランケットを敷いた上に、女の子が寝ころんでいる絵です。途中で思い直して、ブランケットの縁にガラスを立てました。(中略)四辺をガラス越しの地面に囲まれているとしたら、家族の生活はどこにあるのでしょう。そこで、もう一枚絵を書いてみます。女の子の上に床が浮いているような絵です。床の上には椅子やテーブルが置いてあります。机の上にはコップがあります。正確には、コップを書くことでそこがテーブルであることになっているし、それがテーブルになったことでその下が床になったことになる、というのが絵を書くときの思考の流れです。 彼のやり方が建築家の技法として稀なものなのか新しいのか、それとも割と凡庸であるのか、それはよくわからない(けれども、おそらくはかなり特殊であることだろう)。だが、ここに掲げられている方法は、いま考えようとしている「小説」のはじまり方はじめ方と、明らかに相通じている。注意するべきは、ここでの「思考の流れ」が、ただ単に思いつきを勝手気侭に繋げてゆくフリーフォームとはまったく異なるものであるということだ。それは「○○であることで××であることになり、××になったことで□□になる」というように、あくまでも段階的なステップを踏まえながら、ロジカルに構築されている。しかし、にもかかわらず、このプロセスは、最初から結果や落とし所を前提にはしていない。ひとつひとつの「書き足し」は、常に驚きと発見と共に逐一見出される。だがそれは現れるやいなや、紛れもない必然性と論理性を身に纏うことになるのである。 このことについて、建築家は別の場所で、次のように語っている。 一人一人の頭の中にあることと、目の前にある抽象的な枠組みの間に、物語みたいなものが、たぶん後から見つけ出されるのだと思います。 物語。それは真白な紙片の上に淡々と引かれた線の交錯から成る幾つかのフィギュール、それらが次第に形造るロジック、そしてそこから俄に立ち上がってくる世界の中に「後から見つけ出される」。しかしそれは線の「書き足し」の側だけで行なわれているものではない。それは「一人一人の頭の中にあること」がなければ生まれ出てきはしないのだ。とはいえしかし、だからといってその物語は、送り手と受け手の想像力の出会いごとに、その都度さまざまに姿を変えて現れる、などと言いたいわけではない。それでは建築家の方法は無限の様態をひたすら弾き出すばかりで、いつかちゃんと一つのたてものに定位するという本来の目標が見失われてしまう。それでは端的にきりがない。だからそうではなく、やはり物語はほとんどひとつに収束するようになっている。むしろ反対に、描かれ/書かれつつあるものが、描かれ/書かれてしまったときには、必ず何かを表してしまい、何かを物語っていると思えてしまう、ということを、どう考えられるのか、ということなのだ。 そこでまたもや唐突だけれど、もうひとり、劇作家であり演出家でもある人物が話していたことを引いてみたい。彼はじつは小説家でもあるのだが、さしあたりいまは演劇にかんすることだけを話題にする。 「紙袋を持っている女の子がいます」と言って、紙袋を持っている女の子は舞台上にいる。それを描くは描くんだけど、それをどう描くかって話で。「あっ、紙袋にワインのボトルが一本入っているから、それなりに重い紙袋を持って立っている女の子だ」というふうに見えるからだが、そこにあるということが舞台上で起これば、それで演劇は成立する、というか。「今から紙袋を持っている女の子をやります」と言ってやる。ここにいるんだなと伝える。そういうことを取りあえずやりたいんですよね。 演劇は通常、俳優が特定の役柄になったふりをして、あらかじめ書かれた言動を辿ることで成立する。そこに演技力とかリアリズム(本当らしさ)などと呼ばれる要素が介在してくることになる。「ふり」とは舞台という場でのみ機能する「約束=決めごと」である。この劇作家/演出家は、そんな「約束=決めごと」をどれほど説得的なものに出来るか、という技術や才能の問題を一旦退かして、ただ「約束=決めごと」を提示するだけで「演劇」は生起すると言うのである。つまり彼にとって「演劇」における「ふり」の本質は、演技の位相にではなく、すでに「今から紙袋を持っている女の子をやります」という宣言に宿っている。ではそんなことがどうして可能なのか? 言葉の力によって、と彼は答える。 言葉をとにかく観客に与える。観客にその言葉の意味を与えて、その作用を観客に起こさせるということに関心があるんですよね。言葉って本当に強いから、例えば「みづきちゃんが紙袋をぶら下げています」と言ったら、やっぱり観ている側はその情景を強制的に思い浮かべさせられる。そこから逃げられないんですよね。「そんなの嘘だろ」と思うことができなくて。そう聞かされたら、そう思い浮かべろという命令なんですよね。そうせざるをえない。だから僕は、例えばからだと言葉の追いかけっこみたいな話も稽古の現場ではするんです。「紙袋をぶら下げている人をやって」と言って実際にやらずに仮の話で逃げようとしても、言葉の力はものすごく強いから大抵の場合は捕らえられちゃうんですよ。どんなに一緒懸命逃げても捕らえられちゃう。 彼の考え方は演劇人としてはかなり独特と言えるのかもしれないが、ここまで書いてきたこととの繋がりはもはや明らかだろう。彼の言う「演劇のはじまり」は、先の建築家の「建築のはじまり」ときわめてよく似ている。そしてそれは「小説のはじまり」にかんしても、ほとんど同じであるからだ。これらはすべて、何もなかったところに、何ものかによって何かがふと書かれることで、俄に「世界のはじまり」がはじまる、というプログラムを表している。そして、ひとたびはじまってしまった演劇や建築、そして小説、つまり世界は、はじまったが最後、それぞれのはじまり以前や、その外部さえも、はじまりの運動とともに抱え持ってゆくことになるのだ。 ところで、まちがってはいけないのは、いましている話が、ある特別な才能にのみ可能な創造の秘技、というようなこととはまったく違うということだ。誰かには出来て誰かには出来ない、ということではない。そうではなく、誰がしたとしても、それはそうなってしまうのだ。つまり何もないところから何かを書き出して、それから何かを書き足してゆけば、そこに必然的かつ不可避的に世界は誕生してしまう。劇作家/演出家の発言にもあったように、問題はむしろ、この必然をどう受け止めるのか、ということなのである。どうしたって世界は生まれてきてしまう。この事実に気付かないのでも、気付かないふりをするのでも、忘れるのでも、忘れたふりをするのでもなく、この必然に仕掛けられた罠に繊細に神経を配りながら、しかし時にはその罠さえ利用しつつ、自らがはじめたのはまちがいないのに、あたかも何かのプログラムが作動するかの如くすべらかに進行してゆく世界のはじまりに寄り添い、立ち会ってみせること。 その際、繰り返しになるけれど、大切なことは二つある。第一に、何もないところからはじめること。第二に、何もないところからはじまったことをちゃんとわかっていること。たとえ生まれてくる世界が、やがてはまるで最初からここにあったかに振る舞うのだとしても、そこはここではなく、それはこれとは違うのだということを、絶えず意識しながら、そのこと自体をも次なるはじまりの可能性に転換してゆくこと。たとえばそんな、小説のはじまり/はじまりの小説を、わたしは読みたい。なぜなら、それがいまこそ、きわめて貴重なものだと思うから。 ではなぜ、そのような小説が貴重なのだろうか。そしてそれが貴重だとするならば、その貴重さは何をなし得るのか。これからすこし時間をかけて、これらのことを考えてゆきたいのだが、まずひとつ言えることは、現在書かれている小説にそれなりにつぶさに目を配ってみても、そんな作品はけっして多くはない、むしろとても少ない、ということである。もちろん、いま書いているようなこととは、ほぼ無関係な態度で書かれている小説にだって、優れた作品、読むに足る作品はありはする。けれども、はじまりのプログラムとは無縁に思える小説たちには、それ以外の規準で測られる出来不出来があるのに対して、はじまりをしっかりと装填された小説は、ただそれだけで例外なしに素晴らしいのだ。このことは断言しておきたい。 実際、はじまりのプログラムを有した小説は、ここ暫くでは幾つかしか思い出せない。すでに詳述した『星座から見た地球』以外には、それとはまるでタイプが異なるようでいて、じつはかなり奥深いところで通じ合っていると思えもする、四十四のバラバラの断片がいつのまにかひとつの(無数の)物語を形成している「長編小説」と、長さが随分と不均衡な二部構成の、字義通りの意味でロマネスクと呼ばれるにふさわしい「長編小説」ぐらいしか、わたしには思いつかない。いや、もうひとつあった。その小説は、まず二つごく短い文章が置かれ、次にアステリスクがぽつんと挟まってから、誰のものとも知れない台詞が、空白を左右に従えつつ書きつけられることではじまる。 「ふたりとも眠ったのかしら」 さっきまで車内を賑わせていたたあいない会話もすでにとぎれて静まりかえっている。ひとしきりふざけあっていたが、長引く渋滞で貴子は眠ってしまった。すぐそばで立つ貴子の寝息を永遠子も聞くうち、意識は眠りに落ちこみかけていた。運転席から、「ふたりとも眠ったのかしら」と貴子の母親の春子の声があがる。永遠子はうすくあけていた目をつむる。後部座席を確認する春子の視線を瞼のうちでとらえる。目視しようのない春子のすがたをみている。夢のなかでの狸寝入りなどはじめてのことだと永遠子は思いながら、眠ったふりをつづけた。 二十五年以上むかしの、夏休みの記憶を夢としてみている。つくられたものなのかほんとうに体験したことなのか、根拠などなにひとつ持ちあわせないのが夢だというのに、たしかにこれはあの夏の一日のことだという気がしていた。かつて自分の目がみたはずの出来事に惹き込まれていた。なにかのつづきであるかのようにはじまっていた。自分の人生が流れてゆくのをその目でみる。ほとんどそのときそのものであるように、幼年時代の過去がいまとなって流れている。とりたてて記憶されるべきことはひとつとして起こらなかったはずの、とりとめのない一日の記憶がゆすりうごかされていた。夢に足が引き留められている。永遠子は、隣で眠る貴子のしめった吐息が首筋にかかるのも、自分が乗っている車体をとりまくひかりも、なにもかも夢とわかってみていた。 このはじまりはとてもはじまりらしい。夢と現のあわいを描いた、よくあると言えばよくあるはじまりであるようでいて、ここには確かに、小説のはじまりが世界のはじまりであるという重大な常識への鋭敏な意識が覗いている。これからふたりの女性の、長い長い時間が物語られていくという予感が、複雑さを装った時制への配慮によって、まるでとっくに物語られてしまった時間の遠い余韻であるかのように読む者に響いてくる。この小説の作者は、先に挙げた何人かに較べれば未だ生硬ではあるけれど、何ごとかを最初から掴んでいると思う。なにしろ「なにかのつづきであるかのようにはじまって」いるのが、小説であり、世界なのだから。 『星座から見た地球』福永信 『スケッチング』中山英之 『建築と日常vol.2』 『コンセプション』岡田利規 『4444』古川日出男 『尼僧とキューピッドの弓』多和田葉子 「きことわ」朝吹真理子 (第一回了)
by ex-po
| 2011-03-23 15:04
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