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以下に公開するのは、昨年の秋に僕にとってはじめての本格的な文芸評論の連載第一回として脱稿し、その後、ある雑誌の編集者とやりとりをしながら、連載開始の機を窺ってきたものです。何度か細かい書き直しを求められ、その都度スケジュールをやりくりして応じてきましたが、最終的に自分として、同編集者との信頼関係はもはや維持しがたいと結論するに至りました。また、最後に言及されている朝吹真理子『きことわ』が芥川賞を受賞したこともあり、脱稿後、半年を経て続きを書くことも出来ないまま(当初は月刊誌での連載の予定)、僕がそもそもしようとしたことからすると、内容的なタイムラグが埋め難くなってしまったと思われたので、稿料生活者としては忸怩たる思いですが、ここに全文を公開する次第です。 公開に際しては、編集者の要望に沿って行なっていった改稿後の最新ヴァージョンではなく、最初に書いたママに戻しました(ひとつだけ挙げておくと、編集者の意向により「ですます」調に変えたのを元に戻しました)。一回分とはいえ原稿用紙30枚以上、12000字ほどあります。ネットに上げるにはかなり長文ですが、是非読んでみてください。また、完結した独立の論考というより、文芸時評と小説論の要素を兼ね備えた連載として構想されたものであることをお断りしておきます。 この「つづき」はどうにかして書いていきたいとも考えています。もしも雑誌や版元の方で、ご興味を持っていただける方が居られましたら、事務所宛にご連絡いただければと思います。 どうぞよろしくお願い致します。 長いので二つのエントリに分割します。 『はじめての小説論』 佐々木敦 第1回 小説のはじまりとはじまりの小説 たとえば絵筆の一閃から立ち上がる世界がある。確かにそれ以前からまったく何もなかったわけではないにしても、しかし点か線かあるいは面か、また色の有る無しにかかわらず、画家の掌によって、はじめてカンバスの上に何かが生じさせられた瞬間に、まさにその瞬間から、あたらしく存在し始める世界が、きっとある。 そのとき画家が何を見ているのかは、じつはさほど問題にはならない。いままさに見ているものを写すのか、かつて見たはずのものを思い出しているのか、それとも一度も見たことのないはずのものを描こうとしているのか、それはもちろん大きな違いではあるけれど、絵筆の一振によって俄に立ち上がる世界、という点では、要はおなじことではないか。今ここに、ある一枚の完成された絵があるとして、それは必ず、すべてが一遍に誕生したわけではなくて、当たり前のことのようだが、最初の一筆から最後の一筆までにかかったある時間の帯が、そこには畳み込まれるようにして潜んでいる。その時間は大概の場合、目に見えることはないが、確かにそこに、ある。 描き終わった瞬間から、この絵を見ている現在まで、その絵はいまこうして目の前にあるようにして存在してきた。けれどもそこから時間を巻き戻してゆくと、絵は少しずつ点と線と面と色を失っていって、最後には最初の一筆、はじまりの一閃、世界の創世の瞬間へと辿り着く。そしてそれ以前は、まったく何もなかったわけではないにせよ、その絵は、その世界は、そこにはやはりなかったのだ。 同じようなことはもちろん、絵画以外のいろいろな営み、たとえば小説にかんしてだって言える。むしろこちらの場合は、もっと明白にありありと、はじまりを確かめられる。それはたとえば、次のようにはじまる。 Aはとびだした。 より精確にいえば、すでに「Aは」の二字、いや「A」の一文字から、もちろんその小説ははじまっている。アルファベットの「A」を最初の一字として持つ日本語の小説が、これよりも以前に書かれたことがあったのかどうかはわからない。だが、たぶんかなり珍しいはずだと思う。しかし、この珍しさは必ずしも重要ではない。問題はむしろ、「A」「Aは」「Aはとびだした。」というこの小説のはじまりが、あらゆる小説にとって最初の一字がそうであるのと同じ意味よりもはるかにはっきりとしたかたちで(つまりただ単に「書き出し」であるという言わずもがなの事実とは違った意味で)、ここから俄に立ち上がる世界のはじまりを告げている、ということなのだ。 Aはとびだした。それ以上がまんできなかったのだ。たった五分だがながいながい時間にそれは思われた。雪はやんでいたが降っていたことすらAは知らなかった。Aは立ち止まった。雪だるまを作りたいと思ったからだ。でもいちどぶるっとからだをふるわせただけでまたすぐかけだした。 ここまでで七つの文章である。つまり七個の「。」が打たれてあるのだが、これに対して「、」はひとつもない。そしてこの小説にこれ以後も「、」はひとつも打たれていないだろう。ともあれここまで読んでわかったことを整理してみよう。まずいきなり行為が提示された。Aはどこかから「とびだした」のだ。なぜならば、という理由とAの心境の説明がその次。つづく「たった五分」は前の「それ以上」に対応している。すなわちAにとり「たった五分」は「ながいながい時間」に心理的に相当しているらしい。「雪はやんでいた」ということは前は降っていたのである。だがAはその事実を「知らなかった」ということは「とびだした」後ではじめて知ったのである。Aは「雪だるまを作りたい」と思って「立ち止まった」が、しかしそうはせずに「またすぐかけだした」。 馬鹿丸出しに見えることを承知で愚直に辿り直してみたが、このごく短い文章の連なりの中で、Aがとびだして立ち止まってまたすぐかけだした、というなかなか変化に満ちたアクションが示され、雪という自然現象(とそこから類推されるおおまかな季節の限定)が報告され、そしてこれがおそらくもっとも重要なことだが、Aの(何に対してかは曖昧な)忍耐がたった五分しか保たなかったという証言によって、小説のはじまりである「Aはとびだした。」以前に「五分」という具体的な時間が存在していたことが、巧妙に説明されている。しかしこの巧妙さが何を狙ってのものなのかはまだよくわからない。では、続きを読んでみよう。 Aはもうおうちになんかもどるつもりはなかった。ポケットに四百円ある。これで切符を買って電車に乗る。県をまたいでどこか知らない町で生きていくと決めていた。ゲームセンターで働いて働いたお金でゲームをしたいだけすると考えていた。Aは真剣だったがけっきょく足は県をまたがなかった。駅にたどり着くほんの直前で四百円は使い切ってしまったのだ。帰りに知らない女の子と雪だるまを作った。 これで最初の段落は終わり、次の行から「B」が登場するのだが、ふたたび愚直なトレースを行なうと、「おうち」というからにはAはこどもであるか、実年齢はどうあれ「家」ではなく「おうち」という語を使い慣れている者であるか、あるいは「おうち」というのはAではなくこの文章の語り手/書き手の語彙であるのかもしれない。ともあれAは家出をするつもりだった。所持金四百円。これで「どこか知らない町で生きていく」ことが可能だと考えるからにはやはりAはこどもなのだろうか。労働と娯楽の対象にいずれも「ゲーム」を希望していることもこの説の傍証と言えそうだ。だがAの意志は遂行され得なかった。ここで一つの謎が提示される。結果として「電車に乗る」ことさえ適わなかったのは所持金がとつぜん底をついたからだが、では「四百円」が何に使われたのか。ヒントはそれが「駅にたどり着くほんの直前」に使い切られたという証言のみである。最後の一文で、はじめてA以外の人物ー「知らない女の子」ーが登場する。二人の邂逅の結果としての「雪だるま」の生成が報告される。そして「帰りに」というのだから、Aはおそらく「おうち」に帰ったのだろう。 こうしてAと呼ばれる存在は一旦退場し、次いで「Bはすこし後悔していた。」という一文とともに新たな段落がはじまる。そして同様にC、最後にDが登場し、それぞれに幾つかの「。」が打たれていき、やがて四つ目の段落が閉じられ、Aと呼ばれる存在が再度登場するまで数行空けられることによって何らかの意味で一区切り(1ブロック)であることが窺われる最初のパートはとりあえず終了するのだが、この『星座から見た地球』という「長編小説」は、基本的に(という留保が付くのは例外が存在するからだが)この繰り返しで成り立っている。もともと複数のブロックごとに別々の機会に発表され、読者たちからは「ABCDもの」などといわれていた連作(?)を一冊の本の内に連結したのが『星座から見た地球』であって、しかも作者の予告によればこのシリーズは今後も何冊か続けられるのだという。 いましがた引いたのは『星座から見た地球』の冒頭のブロックだが、初出時は「ずっと五分間」という独立した題名が付けられていた。更に言うと、これは二つ目の「シャボン玉ひとつ」、三つ目の「消印」とともに、ここにこうして一冊の本としてある『星座から見た地球』を構成しているブロック群のなかでも、時間的にいちばんはじめに発表されたのだった。ということは、さしあたり『星座から見た地球』には、少なくとも三段階の単位での読み方がありえるのかもしれない。「ABCD」の各一回しとして、初出時の複数ブロックとして、そして一冊の本として。いや、今後もっと冊数が増えるというのだから最終的(?)なトータルな作品として、というのもあるだろう。作者の策謀と野望ははかりしれない。だが、まずは旧題「ずっと五分間」のみに話を絞ってみる。 みたび愚直に、だが今度はもう少し簡略化してBとCとDにかかわる出来事を記すなら、たぶんこうなる。 Bは五分前に出ていった誰かを探しに出かける。そのとき雪はやんでいる。だが「ゲームセンター」で「太鼓」を叩いていた「年長の女の子」には無視され、公園の「赤いタコのすべり台」にも誰もいない。何度か同じ場所に来てみると、「タコ」にしゃがみこむ「おない年くらいの男の子」を発見した。雪が降り始めた。 Cはようやく小遣いをねだって「ゲームセンター」に「太鼓」を叩きに赴いた。この五分間で雪は降ったり止んだりしている。Cは「スカート」を履いている。「太鼓」にはすでに先客の「小さな背中」が居たが、おそらくお金がなくなったのだろう、唐突にその場を去った。 Dは窓から家の中を覗いた。まだ五分しか経っていない。Dは「太鼓」は背が足らなくて出来ない。Dは「大人のケンカ」の無意味さに思いを馳せるが打つ手が思いつかない。Dが「将来僕は五分でケンカが終わる機械を発明しよう」と考えたりしていた五分の間にまた雪が降り出した。 「今度はやむことはなく町中に残された四人の足跡のすべてを消した。」というのが旧題「ずっと五分間」の最後の一文である。いろんなことがわかるようでもあり、ほとんどのことがわからないようでもある。まず大前提として、叙述の上では連続しているAとBとCとDのエピソードが、全体として、もしくは相互に関係があるという保証はどこにもない。おそらくAと呼ばれている存在はAと書かれてある限り同一人物であり、またABCDは異なる人物であるものと思われるが(念を入れればそれだって絶対というわけではないが)、それ以外は何もかもが不確かさをさりげなくもあからさまにしたままである。そしてこの不確かさは続くブロック群に現れるABCDたちがAならAと呼ばれていれば全員同じ人物というわけではまったくないといった風に更に敷衍されてゆくのだが、それはともかく、ここで問題となるのは「人物」と「時間」の推定であるだろう。至る所に働いている不確かさの引力を可能な限り排して「ずっと五分間」を無理繰り「あらすじ」化してみると、たとえばこうなる。 AはBとの口喧嘩の末に家出を試みたが手持ちのお金をゲームセンターの太鼓に使ってしまい断念。BはAを探しに行って太鼓でCと遭遇。それ以前にCはAに太鼓で遭遇。DのABCとの関連は不明。 繰り返すが、これはもちろん無理繰りの「あらすじ」に過ぎない。ほぼ確実に確か(?)であるらしいことは、AとCとDがこどもであるらしいこと(Bについては必ずしも確かではない)。Cが女の子であるらしいこと(スカートを履いてるから)。Dが男の子であるらしいこと(「僕は」と言ってるから)。Dと「小さな背中」が別人であるらしいこと(背が足りないから)。このくらいである。他は厳密に考えるならば、AとBの関係も、太鼓をやったのが誰と誰であるかも、そして出来事の時間的な順序も、実のところさっぱり定かではない。 その最たるものが「雪」と「五分」をめぐる記述だろう。幾度も出てくる「五分」は、時間の単位としては同じボリュームを持っていながらも、その照応関係も前後関係もよくわからない。各々の「五分」の間に降ったり止んだりしている「雪」は、そうした関係性を繙く鍵であるかに思わせて、むしろ混乱を増しているようにさえ思える。「ずっと五分間」とはいかにも意味深なタイトルというべきだろう。「たった五分」が「ずっと五分」に、いつのまにか変換されている。「ずっと」という曖昧な持続(永続)の表現が、ともかくも有限の具体的な時間であるはずの「五分」に付け加えられることによって、たとえば「この五分」は、ひたすら続いていく時間のどこからでも括り抜くことができて、だからいつのことでもありえるのであって、それゆえに本当はいつのことなのかは結局のところ曖昧なまま、読む者は自らの確かさへの執心をさておくことにする(しかない)のだという、作者のちょっと意地悪と言えなくもない認識が、そこには覗いている。ひとつだけここで確かなことは、Dの「この五分」のあいだに降り出した「雪」が「今度はやむことはなく町中に残された四人の足跡のすべてを消した」ことだけである。 だが、この不確定性は、いつであれ「その五分」が、つまるところ「書かれた時間」であるという厳然たる事実に因っている、のではあるまいか。はじめに戻ってみよう。「Aはとびだした。」と読み出した、その瞬間に、それと同時に、そうする以前の「たった五分」も同時に誕生した、ということなのだ。それは実在していなかったのに存在させられた。そしてそれからも実在していないのに存在していくのだ、言葉によって。つまり世界がはじまる、はじめられるということは、はじまりよりも以前の時間と出来事も、それと共にはじまる、はじめられるということを含んでいる。それはストップウォッチを押した瞬間から、0.00秒のリセット以前の過去を測ることがはじめて可能になる、ということと同じである。 すでに在ることになっている世界の記述や描写でもなければ、切れ目無しに続いていく時間の恣意的な切り取りでもない。書くことと読むことが、そのまま、事実や現実とされているもの、記憶や記録と呼ばれているものの助けを借りることなく、ただそれだけでもって、世界と時間の端緒と黎明を告げることになる書き方と読み方。そういう「小説」がこの世界にはあるのであって、『星座から見た地球』の作者は、その小説家としてのはじまりから、ずっとそういうことをやってきた、やろうとしてきたのだと思う。書くこと/読むことによってしか、立ち上がらない世界。書きつつある/読みつつある行為の只中からのみ、杭を打たれ流れ出し巻き戻る、現在と未来と過去。なにしろ、この作家のはじめての小説のはじまり方は、こんな風だったのだし。 君は、ねらわれている。 いきなりこんなふうに書き出しても、信用されないのはわかりきっている。僕だってできるなら陳腐な言い回しは避けたかった。しかし、耳の中に、いきなり入ってくるのでもないかぎり、こういうことはいつだって事前にシャットアウトされてしまうものだ。いきなり言わないことには、聞いてさえもらえないということだ。 しかも、この小説のタイトルはというと、よりにもよって「読み終えて」というのだから、ここにも「たった」が「ずっと」に変換されたのと同じ仕組みが働いているとみるべきだろう。つまり「いきなり」書き出され、そして「いきなり」であることを妙に強調されもする「君は、ねらわれている。」という一文は、いずれにせよ読む者(が「誰」のことであるのかはさておき)が読みはじめるその瞬間に「いきなり」の照準を合わせるしかない。それはいわば時限爆弾のようなものである。だが、それは実際に爆発した時刻があらかじめタイマーがセットされていた時間であったことになってしまうという、倒錯したタイムマシンのような時限爆弾なのである。「いきなり」を告げられたとき、読む者は「君は、ねらわれている。」を、すでに必ず「読み終えて」いる。今しがた読んだばかりの一文を「いきなり」であったと弁解されて、それはもちろん小説の中の出来事、じつはこの数行先には、この記述を含む小説の冒頭自体が一通の「手紙」であったことが判明し、その内容が火急の用件であるという事実ゆえの「いきなり」であるということがわかるわけだが、そういう物語上の納得とは別の次元で、一篇の「小説」が「いきなり」はじまるという絶対に例外のありえない事実と、しかしその事実は常に既に「読み終えて」からしか知られることがないという、当然ではあるが十分に意識されているとは言いがたい事実を、読む者はまさに「いきなり」思い起こされることになるのである。「たった五分」がいつのことでも構わないように、「いきなり」もいつであっても構わない。だが、たったの「五分」が、その「前」と「後」と「あいだ」を無限に産み出すことで、結果として「ずっと」を牽き出してくるように、読む者は常に既に「いきなり」「読み終えて」いきながら、そうすることで、「時間」を、「小説」を、「世界」を、不断に生産しているのだ。それはそれを書いた者が、いままさにそれを書いている、以前には何もなかったところからそれをはじめて書きつつある、真に「いきなり」が刻々と更新される瞬間へと、読む者をワープさせることに他ならない。 (下のエントリにつづく)
by ex-po
| 2011-03-23 15:08
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