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「文學界」の新人賞を受賞し、芥川賞候補にもなった表題作と、受賞第一作として同誌に掲載された中編「つぎの著者につづく」を併録した作品集である。言わずもがなのことではあるが、いちおう述べておくと、円城塔は前後してSFの分野でもデビューし、長編『Self-Reference ENGINE』と短編集『Boy's Surface』が既に刊行されている。 ところで、この単行本には書き下ろしのパートがある。「つぎの著者につづく」についての自注で、69項目に渡って語句の解説や引用出典などが懇切丁寧に付されている。同作が「文學界」に掲載された際、あまりの難解さに大方無視を決め込まれたことへの反省(?)から為されたことのようだが、この試みを私は二重の意味で非常に興味深いと思う。第一に、こうしたことを敢てやってのけ(られ)る作家は今時かなり珍しい、ということ。註の中味は古今東西の前衛文学から文系理系(円城氏は元々は複雑系研究者)両翼の専門用語にまで至る驚くべき広範なものだが、しかしそれが博覧強記を見せつけるギミックとしてというより、あくまでも一種の親切心からの行為であるかのように見えるところも面白い。そして第二に、こっちの方が重要なのだが、にもかかわらず、これだけの註が加わっても、「つぎの著者につづく」という作品が、ほとんどわかりやすくなっていない、という点が、何とも言えず興味深いのだ。 註に挙がっている固有名を拾ってみる。ウンベルト・エーコ、ヘロドトス、吉本隆明、ウィトゲンシュタイン、エドガー・アラン・ポー、フランツ・カフカ、トーマス・マン、ルキノ・ウィスコンティ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ミゲル・デ・セルバンテス、レーモン・ルーセル、R・A・ラファティ、ルーディ・ラッカー、J・D・サリンジャー、アンブローズ・ピアス、ブレーズ・パスカル、ヘンリー・ダーガー、スタニスワフ・レム、イタロ・カルヴィーノ、クルト・ゲーデル、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ、ヤン・シュヴァンクマイエル、プラトン、フランセス・A・イェイツ、リチャード・D・ジェイムス、キケロー、荘子、ルドルフ二世、ルクレーティウス、J・R・R・トールキン、ジェイムズ・ジョイス……しかし繰り返すが、これらの名前を予め知っていたからといって、小説の本質的な読解に劇的に役立つわけではない。データに関わるリテラシーはアーキテクチャーの把握とは別次元に属している。おそらく初出時の円城氏の気持ちとしては、註など無くても読者諸兄はもとより何もかも先刻承知で、むしろそこはデフォルトというつもりだったのではないか。だから註付けはやはり親切心というか、些か後ろ向きなサービス精神の産物でしかなく、本来は、大方表立っては「R氏」こと「リチャード・ジェイムス」という名の謎の作家の探索行の形を装う「つぎの著者につづく」が、タイトル通りに次々と「つぎの著者」へと猛速力で譲り渡されてゆく、寄りにもよって他ならぬ「私」という一語の儚くも目くるめく冒険譚であり、すなわちつまり、あの「バベルの図書館」が「世界」そのものになってしまったとしたら?という仮想のスペキュレイションである、ということは誰の読みにも明らかであった上で、その内実と様態の成功率と質とを測られるべきものであった筈なのだ。少なくともその程度の覚悟はあっての提出だったのに違いない。だが、どういうわけかそれよりもずっと手前に立ち戻らざるを得なかったのは、この作家にとって不幸と呼ぶべきだろう。この作品は『SRE』や『BS』所収作と同じく、所謂「メダフィクション」ではなく、「「メタフィクション」についてのメタフィクション」、もっと言うなら「メタ」と「フィクション」ということについての、すこぶるチャーミングな一考察である。 さすれば「オブ・ザ・ベースボール」の方は、やはり幾ら何でもカンタンすぎやしないかという気分にもなるのだが,だからこそ新人賞を貰えたという見方もありえるかもしれない。年に一回のペースで空からとつぜん人が降ってくる町ファウルズで、レスキュー・チームの筈なのに何故かユニフォームとバットを支給されて、日々、一度として成功した試しのない救助に備えて訓練に励む「俺」たちの物語は、端的にサリンジャーとかヴォネガットとかブローティガンとかクーヴァー等といった固有名を想起させもするが(なのに町の名は『魔術師』や『マゴット』の作者と同じ)、そのあっけないほどにあっさりとしたワンアイデアの奇想を何かの隠喩などとして捉えて云々するのはあまり意味もないしつまらない。当然のように「俺」は手記を書いていて、それが勿論この小説であって、だからつまり「俺」でも「私」でも「僕」でも何でもいいのだが、誰であれ「話者」が居ることになった途端に、物語ることと物語られること、書くことと書かれることが同じことになってしまう、より精確にいえば、もともと同じなのだということが表面にせり出してくる、という厳粛なる原理が、ここでは殆どジュブナイル的と呼んでもいいような易しさと優しさとで再確認されている。以後の作品での手の込み方と比較するならば、これはある意味では手抜きだとさえ思うのだが、手抜きゆえこその素っぽさが奇妙な魅力になっていることも確かで、おそらくは結果として、処女作に全てが在る、というクリシェに、肯定的で好ましい証明を与えているということになるのだろう。実際、これは小説家=円城塔の誕生を綴った、清新で哀切な「自伝」として読むことだって可能なのだ。 円城塔は、謂わばテクノロジカルなサミュエル・ベケットである。彼の小説においては、何でもあり(得る)が、何にも無い、とまったく同義になる。そこでは「無」が延々と語っている。オールオアナッシングならぬ、オールイズナッシング、ナッシングイズオール。だがその「ナッシング」に「話者」が刻印される時、俄に何かが起動する。その「何か」はサムシングであってナッシングではなくなってしまう。言語が実存へと突き通るのはその瞬間で、ベケットが生きて死んだように円城塔もまた生きて死ぬだろうという当然の事実が、すこぶる感動的な残酷さとして立ち上がってくるのだ。時として不真面目さを美徳として評されもするこの小説家は、痛々しいほどに真摯であると私は思う。
by EX-PO
| 2008-05-18 15:12
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