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【今月の十編】(順不同) 「あるゴダール伝」松本圭二(「すばる」4月号) 「一万年のパートナー」青来有一(「文學界」4月号) 「仮の水」リービ英雄(「群像」4月号) 「オフェーリアの裏庭」海猫沢めろん(「群像」4月号) 「不時着」萩世いをら(「群像」4月号) 「およばれ」松井周(「群像」4月号) 「ウィンタータイム・ブルーズ」桜井鈴茂(「群像」4月号) 「返却」宮沢章夫(「新潮」4月号) 「マイクロバス」小野正嗣(「新潮」4月号) 「ナチュラルママ!」原田ひ香(「すばる」4月号) 【「ニッポンの小説はどこへ行くのか」はどこへ行ったのか】 4月号の話題といえば、やはり何と言っても「文學界」に掲載された座談会「ニッポンの小説はどこへ行くのか」でしょう。出席者は、岡田利規、川上未映子、車谷長吉、島田雅彦、諏訪哲史、田中弥生、筒井康隆、中原昌也、古井由吉、山崎ナオコーラ、そして司会の高橋源一郎という総勢十一名。実に36ページにも渡る「大座談会」です。五十年前に同じ「文學界」で行なわれた「日本の小説はどう変わるか」という座談会にちなんでのことで、その時の出席者は、堀田善衛、大岡昇平、伊藤整、遠藤周作、高見順、中村光夫、石川達三、山本健吉、福田恆存、石原慎太郎、野間宏、江藤淳、司会の荒正人の総勢十三名でした。おお、スゴいメンツですね!。 そこで今回の顔ぶれについてですが、五十年前と比較してということではなくて(というかあらゆる面で五十年前とは比較することなど最早不可能であるということがあからさまにされたことこそが今回の試みの収穫のひとつだとさえ言えると思うのですが)、後述の一点を除けば、読んでいる内に段々と、意外とバランスの取れた、わりかし行き届いた人選みたいな気がしてくるからあら不思議。もちろん、この人が入ってないなあ、あの人が居てもいいのに的なことはあれこれ思うわけですが、「ニッポンの小説」の現在と行く末を推し量ろうとする上で、そんなにおかしな並びにはなっていないという印象を受けました。 冒頭で、現在「文學界」で「ニッポンの小説」を連載中(この号は休載)の司会・高橋源一郎氏は、五十年前の大座談会について触れています。「五十年前といえば、ちょうど原田康子さんの『挽歌』や深沢七郎さんの『楢山節考』が出てきて文壇が慌てていた時期です。当時の出席者は同人誌などで文学修行していないという意味で、彼らの作品を「素人小説」と呼んでいるんですが、そこにはこれから小説が大きく変質するかもしれないという危機感があります。その他にも中間小説の隆盛に対して、「中間小説は将来テレビに食われるだろう」という発言もありました」。五十年前は故・深沢七郎が新人だったんだと思うとさすがに隔世の感がありますが、この五十年のあいだに「文学」に起こったことといえば、端的に、更なる「素人小説」化と、ますますの「中間小説」化ということになるのだろうと。現状、かつての「同人誌」的な「文壇」への登竜門の役割を果たしているのは「新人賞」ということになるのかもしれませんが、むしろ現実的には、今や「文芸誌」という存在自体が丸ごと「同人誌」化していて、そこで注目されてある程度市場原理に耐えると判断された作家だけが、版元の出版社の利益に貢献し得るとして、よりメジャーな媒体での仕事を与えられたり、単行本を出してもらえる、ということになっているように思えます。つまり五十年前の「危機感」は思い切り当たってしまったわけで、しかも今ではもう、何か新しい風が吹いたとして慌てたり困ったりするような「文壇」はおそらく何処にも存在しておらず、当然、危機感もない。「日本の小説」が「ニッポンの小説」に変わっているのはあからさまにアイロニカルですが、その元ネタである高橋源一郎氏のエッセイも込みに、アイロニカルに振る舞うことでしか希望の端緒を見出すことが出来ない、という気がしてしまい、他人事ながら妙にうすら寒いような空疎感を覚えたのでした。また、五十年前の出席者で一番若かったのは当時23歳の江藤淳と24歳の石原慎太郎ですが、「文学」対「素人小説」という軸とはまた別に、彼らの先行世代に対する批判的な発言も相俟って、古参と若手、という対立軸が、かなり明確に見て取れます。しかし今回は、そういう世代間/キャリアの違いから来るわかりやすい線引きみたいなものは、ほとんど見当たりません。あるとすれば年齢や出自を超えて、元気な人(例:古井由吉)と疲れてる人(例:中原昌也)、やる気のある人(例:山崎ナオコーラ)とやる気のない人(例:中原昌也)という区別くらい。 個々の発言についても思うところは多々あるのですが、筒井、古井、車谷という、年齢でいうと上からトップスリーのお三方が、それぞれ非常にユニークな文学観を披瀝していて、発言も滅法面白いのに対して、新鋭作家たちが語る「文学」なるものは、なんだか妙にイメージ的というか、あまりに単純素朴な観念に収束しているような感じがしました。それはつまり、自分の書くものがつまりは「文学」なのだ、というやみくもな確信(もちろん、その背後には徹底した懐疑があります)を鍛えなければ到底やってこられなかった人達と、既に(ホントかどうかはともかく)在ることになっているものへの相対的なポジショニングで自己規定を行ない得る人達との違い、ということなのかもしれません。そして、これはけっして世代的な差異ばかりではないような気がします。 ところで、座談会後記として書かれた文章の中で、高橋源一郎氏は「ただ一人、評論家として出席した田中弥生の発言を聞いている時にいちばん、ぼくは、五十年の時の流れを感じた。小説家の役割ではなく、評論家の役割がすっかり変わってしまった五十年だったのかもしれない、とぼくは思った」と述べています。この書き方はちょっと曖昧で誤解を呼びやすいかもしれません。高橋氏の真意はどうあれ、ここに例の「小説のことは小説家にしかわからない」発言を組み合わせてみると、またまた物議を醸しそうです。第一、何故ただ一人の評論家としての出席者が田中弥生さんなのか、という不可思議さは、普通に読んでも最後まで残ります(ご本人も不思議だったのではないかと)。しかし、この「評論家の役割」を「評論家に求められる役割」とするならば、ここで作用している不可視のプログラムは明らかです。要するに田中さんは、高橋源一郎をして「評論家の役割がすっかり変わってしまった」という感慨を抱かせ、そう書かせるためにこそ、あの場に召喚されていたのです。お気の毒なことです。文芸誌ファンであり文芸批評ファンでもある僕としては、やはりちょっとばかりトリッキーに過ぎるんじゃないの?、これはさすがにいささかズルいんじゃないの?、と正直思いました。 ●今月のピックアップA:「あるゴダール伝」松本圭二(すばる4月号) 松本圭二は詩集『アストロノート』で萩原朔太郎賞を受賞した詩人で、本作は知る限りで初めての「小説」です。といっても純然たるフィクションというよりも、詩人自身の自伝というか手記というか、学生時代に出会った友人たちとの良くも悪くも青臭さ満載の関係をストレートな筆致で回顧しつつ、最終的には、彼がどうして、どのようにして「詩人」になったのか、という人生における決定的な出来事が物語られます。一種のモデル小説という意味では、最近だと小谷野敦の一連の小説や高橋文樹の「アウレリャーノがやってくる」なんかにも近い印象なのですが、とにかく「詩人の小説」であるにもかかわらず、文学的修辞というか文体とか文彩といったようなものとも、小説的な構成とか仕掛けのようなこととも、完璧なまでに一線を画しているのが逆に新鮮です。松本さんは『アストロノート』でも限りなくエッセイや評論や身辺雑記に近い書法を自在に取り入れていたので、以前から芽はあったのかもしれませんが、ある意味ではヤケになって書いたのでは?と思わせるようなヘンな迫力がここにはあります。タイトルの意味は、大学の仏文サークルを母胎とする同人誌のメンバーが、お互いをヌーヴェルヴァーグの作家になぞらえているのですが(松本氏はジャン・ユスターシュ)、その内の一人で唯一、商業誌「ポエリカ」(言うまでもなく「ユリイカ」のパロディです)に作品が載ったことがある、異様にプライドだけが肥大した権田類という駄目な先輩がゴダールの綽名を拝命していて、その人物との関わりが作品の中心を成しているからです。ぶっきらぼうに無勝手流で書かれた一編ではありますが、今月読んだ文芸誌の小説でもっとも感動してしまったのは、松本氏と僕がほぼ同世代で(正確には彼の方が一歳年下で、誕生日は一日違い)、それゆえこの小説に描かれているような時代や雰囲気に思い当たるところが多々あり、僕にも僕にとっての「あるゴダール」が記憶の中に存在しているからだ……と言ってしまえばそれまでなのですが、ともかくも松本氏には今後も小説を書いて欲しいと思います。 ●今月のピックアップB:「およばれ」松井周(群像4月号) 松井周は平田オリザの青年団に所属する俳優で、自らも劇団「サンプル」を主宰し作・演出に当たっています。松本圭二と同じく、これが小説デビュー作。特集「新鋭13人短編競作」の一編で、ごく短い小説ながら、なかなかの仕上がりです。「サンプル」の公演「カロリーの消費」や「シフト」では、一足飛びに非日常性や抽象性を志向するのではなく、日常性に属する細部や痛点のようなものを異様に拡大したり変形してゆくことで、いつのまにか奇妙にアブストラクトな世界に突入しているというアプローチが特徴的なのですが、リゾートマンションのセールスマンのオフィス・ラヴ(?)を描いたこの小説も、心理的な納得や物語的整合性を踏み越えた過剰さ、奇態さを湛えていて、読み進めながら居心地が悪くなってきます。そしてこの居心地の悪さは、才能と呼んで差し支えないものではないかと。
by EX-PO
| 2008-05-18 15:08
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