カテゴリ
以前の記事
2012年 08月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 フォロー中のブログ
メモ帳
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
まず了解事項の第一なんですけど、ルート1という作品はドキュメンタリー映画であるという事があります。で、これはドキュメンタリー映画であるっていう言い方を、あるって言っちゃうと、すでに間違ってる、おかしいよというふうに思う方が、多々いらっしゃると思うんですが、この映画は、ご覧になってわかりますようにアメリカのルート1、一号線ですね、カナダのところから、ずっと、フロリダのキーウエストまで南下していくっていう話ですけど、南下していっていろんな人と出会ったりして、色々起こった事っていうのをフィルムで記録していて、それをあとで一本の映画にしたということで、基本的に何か決まったストリーというものを持ったりはしてないですね。そういう意味ではドキュメンタリー映画という範疇に入れてもおかしくない映画であるという、なんか手元の資料によりますと5ヶ月くらい撮影かかっていて、65時間フィルムをまわしたという事が書いてあるんですけど、65時間もまわして4時間15分、、、、3時間くらいにおさめたいという事なんですが、とても無理だという事で、4時間15分になったということなんですけれども、65時間、35ミリで取ってると思うんですけど、65時間のフィルムをまわしたという事も信じられないなぁという気もしないではないんですが、35ミリのフィルムを65時間もまわしてそれを4時間にするその予算的なパワーっていうのとこの映画の出来上がりがですね、全然一致しないので、正直言ってこの映画は間違いなく、ほとんどお金を稼げない映画ですよね。お金を稼ぐっていうのを考えて作ってたらこんな映画にならないんで、これを65時間ほんとにまわしてたんだとしたら、それだけでもロバート・クレイマーという人がいかにすごい人かっていうのが、わかる気がするんですが、それで、いろんなシーンがありますけれども、そのシーンの中で様々その土地で出会った人たちにカメラを向けて、そういう人たちが自分の境遇であるとか自分の意見、自分の持っている物語みたいな事をいろいろカメラに向かって語ったりとかするシーンがあります、で、これらの出てくる人たちがしゃべっている事っていうのは、基本的にはほぼドキュメントだといっていいとおもいます、もちろんそうでない事もあ理想なんですが、基本的には出会った人たちにいろいろ話を聞いていくっていうドキュメンタリー映画の一つの手法っていうのがここでも行われているっていうことだとおもうんですけれども、資料の方にも書いてある、チラシの方にも書いてあったと思いますが、その話を一緒に聞いている、画面に出てくるずっと旅をしているドクという人物自体は、職業俳優さんが演じている虚構の人物なんですね、医者っていう設定なんですが、実は俳優さんが演じていて、その彼のキャラクター自体は虚構である訳です。一応10年ぶりくらいにアフリカで医者とかやっていてアメリカに戻ってきて、ヨーロッパに10年くらいすんでいて、同じようにアメリカに戻ってきた古い友人のロバート・クレイマーと一緒に『ルート1』を旅をするという、そういう設定になっているんですが、その設定自体は要するに嘘なんですね。作っている訳です。作っているということで旅をするんだけど、その度で出会った人たちっていうのは必ずしも虚構の人物である訳ではなくて、その場その場で本当に出会ったある程度アクシデンタルに出会った人々の中から撮影するに足る人、話を聞くに足る人っていうのをチョイスして、撮影して、映画っていうのになってる訳なんですね。ただ、ドクっていう人はクレイマーの他の映画にも出てる人なんですけど、ドクが虚構の人物であるっていうのはかなりあからさまに映画の中では、映画の枠組みの中でもされている訳で、ただ、ロバート・クレイマー本人の事でいうとですね、クレイマーはアメリカ人であるわけなんですけども、1980年から、ヨーロッパはフランスにすんでしまって、それから基本的にはヨーロッパの監督になってしまうわけです。で、その彼がこの映画撮られたの89年ですから、9年後、10年後くらいにアメリカにちゃんと帰って自分が過去に知っていった、幼い頃から知っていたルート1の途中の町々をもう一度訪ねてみよう、その訪ねてみるという自体をもう一度ひとつ作品にしてみようと思ったこと自体は、真実である訳です。非常にリアルな思いであって、いわゆるドキュメンタリー映画をある人が作る動機づけとしては非常にリアルなものだと思うんですね、そういう意味では、この映画は基本的にドキュメンタリー映画であるというふうにはっきり言いきれない。ドキュメンタリー映画的なものはあるけれども、そこに非常にフィクショナルな仕掛けというのがいくつかあらかじめ挿入されていて、そういう形で、ドキュメンタリー/フィクションっていう境目っていう部分を認知している作品になると思うんですけれども、それはあの、先ほどいいましたそれぞれのシーンに出てくるいろんな人物についても同様なんですよね。このドキュメンタリーといわれるフィクション映画の対立みたいな事っていうのは、ずっと映画史的なことの中では、すごい大本の部分でいうとジョルジュ・メリウスとリュミエール兄弟の対立がどうしたこうしたみたいなそうした話から始まっている事なんですが、正直カテゴライズとしてドキュメンタリーとフィクション、劇映画っていうのはもちろん今でもあるんですけれども、とりわけこのドキュメンタリー映画っていうのが本当に虚構的な部分っていうのを写し取っていない単なるドキュメント、ほんとにリアルな現実の断片であるなんて事をいうと。それは全くそうであるわけないわけですね。それはもう最初っから不可能だというふうに思います。例えば、これも単純な話ですけれども、よく言われることでドキュメンタリー映画ではいろんな人がカメラを向けられて、なんかこう赤裸々なまでに自分の事を語りますけども、カメラを向けられてしゃべってる訳ですからね。カメラを向けられてしゃべる事って言うのは、既にそういうフィルターがかかってる訳ですからね。カメラがなかったらそういうしゃべり方をしなかったかもしれないということは、我々はそのカメラによって撮られたその人物の言動しか観る事ができない以上、そこの部分を分ける事って言うのはどうしてもできない訳です。そういう演技の位相という部分でも、本当の意味でのドキュメント、本当の意味での迫真的な現実を写し取るということはやっぱりありないというふうに言えると思いますし、もっと言いますと特に演技がどうこうとか、本人自身がどういう心づもりでカメラに対峙しているかって言うことでなくてもですね、カメラがあるという事、カメラによってある現実の枠取りがされていると言う事だけでも、それはすでに一つの虚構化の手続きがあるわけですね。これは映画じゃなくても、写真とかあるいは録音とかでもそうですね。よく写真でもすごいリアルな写真だと言うふうに、現実そのものを写し取っているっていう言い方がありますけども、実際にはそれはフレームを持っていて、どこにカメラのポジションをおくのかということがあり、それはカメラマンの恣意というか当然偶然シャッターを押してしまったという事があるかもしれないけど偶然であれ、ここでシャッターを押してしまったっていうのは、やはり一つの作為と言いますか、一つの行為として残るわけで、それは現実のものではないということは自明の事だと思うんですね。音楽の話でもそうですね。僕は専門なんで音楽の話になりますけれども、音っていうのは2種類あるわけですよ。誰かが鳴らしている音と、鳴ってる音っていうのがあるわけですね。楽器いわゆる音楽といわれるもの。いや、音楽でなくても例えば何か僕がこうやピンとたたくと音がしますけども、ピンってたたくって事は、僕が何かをしたことによって音が鳴ってるわけです。つまり音を出している主体がいる。それと別に、例えば自然現象の音とかですね。あるいは、例えば機械が例えばこのコンピューターですね。この辺にこう、コンパクトマイクとかつけるとウーンと鳴っているんですけども、ウーンいっているのは機械がっていう主体はありますけれども、人間がではないですね、鳴っているわけです。つまり、鳴らされている音と鳴っている音があって、その違いっていうのは、結構あってですね。90年代以降に音楽の世界で、音響派とかっていういわれ方をするようになった音楽のある部分っていうのは、その人間が出している音じゃなくて、何かただ鳴っている音っていうのを、耳にしてみて、それを聞くっていう行為をしてみたらどうなるかっていう問いがひとつあったんですね。それが例えば、それこそ電球がジーンっていってる音を、マイクで拾ったリですね、あるいは自然の水が流れる音とかですね、そういうものにマイクを向けて、それを聞くっていうことをやる。つまりそれは、音を発している主体がいない、音楽を奏でている主体がいないけれども、聞くっていう行為によって音楽的なものが発動するっていうそういう考え方だったわけです。なんだけれども、実はその知覚がものすごく違う事のように思えてしまうわけなんですが、実は必ずしもそうじゃないんじゃないか。というのは。どこにマイクを仕掛けるのか、どんな音を録音するのかっていうその行為のなかに、すでにある種の作為っていうのが入っているわけで、それを聞き取れるようにするということ自体が、考えようによっては、ある種の演奏だというふうに、音楽的な行為だというふうにいえると思うんですね。つまりやっぱり現実そのもの、今ここっていうものを、そのままの形で記録するっていうのはやっぱりどうしてもできなくて、必ず何かしらの枠取り、フレーミング的なものっていうのは介入せざるを得ない。それと同じようないわれ方が映画でもあってですね。もうはなからドキュメンタリー的なもの、ドキョメンタリー映画とは何かみたいな事をですね、こう突き詰めて考えていくと、そのなかに虚構的なものっていうのは入り込んでこざるを得ないっていう事がわかるし、逆に言うとあらゆる、フィクション映画、劇映画も、その劇映画を撮っているっていう事のドキュメントでもあるといえると思うんです。そういう意味ではもちろん形式的に、ドキュメンタリー映画と劇映画の違いというのはあるんだけれども、それは、かなりエクストリームな部分で考えてみるとどうしてもその向こう側、反対物であるとされているものを突き抜けてしまうっていう事があると思います。でこの映画はその意味ではそういうフィクションとドキュメンタリーの違い、違いというか、違いという部分と、それが通底するという部分の両方をひじょうに見事に明かし立てている部分があるなって思います。で、そこの部分でひとつ重要だなと思うのはカメラっていうものなんですね、この映画では、ロバート・クレイマー監督自身がカメラを持っているわけです。クレイマー監督いっぱい映画作品があってですね、先ほどもいいましたように僕はその映画ほとんどまったく観ていないわけなんですが、この『ルート1』以後主にほとんどの作品でクレイマーが自身でカメラをまわすようなっていったそうなんですね。この映画はカメラを持っていて、つまり我々はロバート・クレイマーがまわした場面しか観てないわけなんですけど、基本的には。だけれども、じゃあそのカメラと完全に一体化していて、いわゆるその客観的なカメラを持った男としてあるかというというと全然そうじゃなくて、むしろ非常に生々しい人間味のあふれる存在として、ドクというものにドクという人は虚構なんですけど、ドクという人物を写しながらも、ロバート・クレイマーというその人自身というのが、カメラの背後から非常ににじみ出てくる部分っていうのがあると思うんですね。普通カメラを自分で持つというのはむしろ、自分が映らないわけですから、つまり本来ならカメラのこっち側に自分自身もいて、自分自身が何かをしゃべったり何かを行動したりするっていうのを記録するっていうのがある種こう、映画作家が私というものを作品のなかに刻印するということでの常套手段というふうにされているわけですけども、彼の場合はむしろカメラを持って自分がそれを撮る主体となるというのが、逆に彼自信っていうのをこの映画に非常に色濃く反映させるきっかけになったんじゃないかなと思うんですね。それが非常に興味深いなと思います。彼が自分がカメラを持って何かを撮影するという事が、その映画というものに、自分の映画というものにどういう影響というか、どういうような磁場を形成する事になるかというのは非常に自覚的だったというふうに思います。そういうドキュメンタリーとフィクションという部分で、『ルート1』はドキュメンタリー映画であるというのをまずひとついったんですけど、そのドキュメンタリーなのかっていう言い方をすると曖昧さが出てくるんですけど、こういう言い方はできると思います。この映画はドクという人とロバート・クレイマーという人が、アメリカのルート1という道をずっと南下していたドキュメンタリー映画であるという言い方をするとどこかこう、非常に曖昧で、矛盾する部分っていうのがおこるんですけど、そのかわりですね、そういう映画を、今説明したような、『ルート1』という映画を撮るという事についての映画であるっていうふうにいうとですね、非常にわかりやすくなるんじゃないかなと思います。これはやっぱり一種のメタ映画的な部分というのがあまりにこうメタ的な、あからさまな方法論をとってないんだけれども、非常にこうルート1という映画をどのように作るのか、どのように撮ってそれが、一編の作品になったのかっていうのが、4時間15分のなかに畳み込まれている作品だなというふうに思うんですね。これは資料にも書いてあったかどうかはわからないけども、ロバート・クレイマーはですね、ウ゛ィムウ゛ェンダースの映画を作る映画で、(?)『ことの次第』という映画があるんですこれは81年の映画ですが、この『ことの次第』で一緒に共同脚本を書いているんですね、ウ゛ェンダースの数ある作品のなかでも『ことの次第』という、これは完全に映画を作る映画、映画についての映画であるわけなんですけども、かなりおかしな部分がある作品だと思うんですが、その非常におかしな部分のある部分っていうのはロバート・クレイマーがおそらく一緒に脚本を書くことによって提供していったんだろうと思えるところがあって、映画を作るということはどういうことなのか、映画を撮るということは一体どういうことなのかということに対して、非常に深く考えていた人だろうと思います。で、もう一つこの映画を観てて僕はふと思い出してしまったのは、やはりこれも映画を撮る映画なんですけども、デニス・ホッパーという俳優がですね、これは『ことの次第』よりさらに10年前、71年の作品なんですが、『ラストムーヴィー』という、映画があります、これは、サミュエルフラーという知る人ぞ知る映画監督が、映画を撮っているという設定のなかでペルーかなんかで西部劇みたいなのを撮ってるんですけど、撮っているうちにスタッフともめたりとか、いろんな事件が起こって、そういうことやってるうちにお決まりのドラッグとか登場したりして、ペルーのいろんな民族的な部分とか出てきて、わけが分からなくなって終わっていくみたいな映画なんですけども、この映画のことも途中で何度か思い出したりして、あからさまに別にこの映画を撮ってますよっていうのをやってるわけではないんですけど、ただ、撮っていることは明らかなんですよね、ロバート・クレイマーがカメラを持って、ずっと旅をしていくっていうことは、最初から前提となっているわけなので、そういう映画をつくる、この『ルート1』という映画を作るということが彼にとって一体どういうことなのかっていうのを絶えず問われているという感じがあるなと思います。 (つづく)
by ex-po
| 2011-05-05 13:16
|
ファン申請 |
||